甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

菅笠日記14 宣長さん、川をさかのぼって!

2019年02月21日 05時28分09秒 | 宣長さんの旅

 近いうちに、倉橋川とか、多武峰(とうのみね)とかに行こうと思います。もう何年も行きたいと思いつつ行っていないから、これも何かの縁だから、行きます。

 多武峰の談山神社(たんざんじんじゃ)には、父がまだ元気なころに行ったっきりだから、十年くらい前かもしれません。紅葉の名所なんですけど、五月のGWに行きました。お客さんはそんなにいなくて、とても静かでした。たぶん、今ごろなら、ガラガラだと思われます。

 中国の人たちもいないし、若い人はもちろんいない。中高年の、土門拳みたいな、ガムシャラのオッサンがポツリ、ポツリといるだけでしょう。手袋しながら、「寒い寒い」と言いつつ、写真だけを撮る。それがその人たちの生きてる証みたいにして、撮る。これがオッサンの生きる道ですなあ。

 この川は。たむの峯よりいでゝ。くらはしの里中を。北へながれ行川也。此道に。桜井のかたよりはじまりて。たむのみね迄。瓔珞経(ようらくきょう)の五十二位といふ事を。一町ごとにわかちて。ゑりしるしたる石ぶみ立(タチ)たり。

 倉橋川を上流に上っています。多武峰からこちらに流れている川となっています。倉橋の里を北に流れている。この道の脇に、桜井の町から多武峰まで、登山道に瓔珞経(ようらくきょう)というお経(なんだろうか?)を五十二に分割して、百メートルごとに石碑が立っているようです。

 伊勢の朝熊山(あさまやま)は、伊勢神宮とセットでお参りするべきお寺がありますが、そこへお参りする人のために登山道に百メートルごとの石碑がありましたが、あれと同じのようです。

 地域の方が、お参りする人の道案内として石碑を建ててくれている。それくらい昔は、多武峰にお参りする人々もいたということかもしれません。


 すべてかゝるものは。こしかたゆくさきのほどはかられて。道ゆくたよりとなるわざ也。なほ同じ川ぎしを。やうやうにのぼりもてゆくまゝに。いと木(コ)ぶかき谷陰(たにかげ)になりて。ひだり右より。谷川のおちあふ所にいたる。瀧津瀬のけしき。いとおもしろし。

 こうした石碑というものは、どれくらい歩いてきたかがわかるものですし、これあらあとどれくらい歩けばいいかも分かるもので、石碑が道案内をしてくれています。

 もうしばらく道を進んでいきますと、木々がこんもりとした、薄暗いところがあります。その深い谷には左右から川の水が滝になって落ちていて、風情があるようです。滝は、いつ見ても不思議におもしろいものだけれど、ここの滝もなかなか優美な気がするのでした。

 宣長さんは、滝があるなんて知らなかったんですね。ただひたすら談山神社をめざしていたら、滝に出会った。うれしかった、というところかな。


 そこの橋をわたれば。すなはち茶屋あり。こゝははや多武の峯の口也とぞいふ。さて二三町がほど。家たちつゞきて。又うるはしき橋あるを渡り。すこしゆきて。惣門(そうもん)にいる。左右に僧坊(ソウバウ)共こゝらなみたてり。

 滝の近くに橋があって、渡れば茶屋がありました。(どうも、おっかなびっくりの描写で、一つ一つに感動しすぎですね。もっとサッと多武峰にたどりついてくれたらいいのに! いや、克明な日記を書こうとしているから、これでいいのかもしれないです)

 茶屋あたりから、もう多武峰という地域になっていて、あと数百メートルです。もう少し。家々が続き、立派な橋があって、惣門に入ります。ここからは完全に多武峰の世界です。

 参道の両脇には僧房が立ち並んでいました。

 談山神社というのは、藤原鎌足さんをおまつりする神社だったと思います。だから、春日の社があちらこちらにあってもいいわけです。有力豪族が、都を睥睨(へいげい)する山の上に、自分たちのお墓を作った。

 これから、天皇家中心に政治システムそのものは続くかもしれない。けれども、実験を握るのは俺たちの血統だ。あやかりたいものはみんなこちらにお参りしろ! というような、何だか偉そうな気配もあります。そういう形にはなっている。

 でも今は、都は奈良にはないし、藤原氏は政治の実権をにぎってないし、すべて昔の話です。

 宣長さんは、ここで何をしますか?


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