甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

熊野、木の国、オニの国

2022年05月07日 09時53分28秒 | 海と水辺と船と

 中上健次さんのマネです。中上さんは、新宮から大阪めざしてミワサキ、ウグイ、ナチ、テンマ、ユカワ、タイジ、コザ、ヒメ、クシモトと紀勢線を走って行くような書き方をしていました(『紀州 木の国・根の国物語』)。

 そこに何か共通点があるのか、それらの地名がどんな意味を持つのか、私にはわかりません。語感としては、何となく切れっぱし感はありました。何だかザクっとした地名で、それはどんな意味があるの? そこにどんな人が住んでいるの? 平地はあるの? 観光するところはあるの? もう少し表情を見せてよ、と思うんですが、とっかかりのない旅人なら、あまり頭に何も残らなくて、ただ車窓に広がる海を見るばかりです。地元の人も、尋ねられたら答えるだろうけど、あえて自分から語ったりはしません。

 それにしても、どうしてこんなに海近くを走らなきゃいけないんだろう。もう少し内側に走れる土地はなかったんだろうか?

 まあそれはないものねだりで、紀州というのは地図ではほとんど茶色や焦げ茶色で、みどりの平野はあまりなかった。都市も、和歌山市から南は、十万以上の人口のある町って、あるんだろうか。



 三重県側の紀州、三重県の人は「東紀州」という呼び方をしたりもしますが、こちら側はもっと平野がありません。熊野市から新宮までの七里御浜がある間は、少しだけ開けているけれど、それ以外は山また山です。

 山がそのまま海に入り込んでいます。よくもまあ、神武天皇さんや中国の徐福さん(秦の始皇帝の時代の人)たちは、こういうところに上陸しようと思ったものです。いや、こういうところだからこそ、もう海はいいから、適当な船をつけられるところで上陸したいと思ったのか、いくつかの上陸ポイントが今も語り伝えられています。

 先ほどの写真、冬景色の銚子川、大台ケ原から水は流れて来るので清流として地元では知られた川です。週末なんかはキャンプの人で一杯になったりします。そう、もう大台ケ原山や大峰山系その他の山々を仰ぎ見なければならないのは、熊野の人たちの宿命でした。

 平地はあまりない。海は広大に広がっている。熊野三山へお参りをしようという旅人は時たま通っていく。こんな辺鄙なところによくもまあ来るもんだ、とも思うけれど、有名な一遍上人とか、平安末期の上皇様とか、平家の人々、みんなが通って行きました。

 なぜ人々は、こんなところをめざすのか、そして、どうしてこんな辺鄙なところに不思議な神様や仏様がおられるのか、中世の人々のワンダーランドだったのか、それ以前からあったのか、何もかもわからないまま、人々が通り過ぎていく狭い空間がありました。



 以前、NHKの「にほんのおなまえ」とかいう番組がありました。熊野地方に「き」のつく地名が多いのはなぜ? という話題が取り上げられていました。

 「き」は守護神・サポート役という説明だったかどうか、詳しくは忘れてしまいました。でも、都落ちしたり、都を追われたり、都に凱旋しようとしたり、いろいろとリベンジをめざす人たちを助けてきたという歴史はあるようです。

 古くは、神武天皇をサポートした八咫烏(やたがらす)、三本足のカラスで、現在も日本のサッカー協会のイメージキャラクターになってたりします。織田・豊臣・徳川といった三英傑の天下取りで活躍したのは九鬼水軍でした。一遍上人だって熊野の力で悟りを開いた。小栗判官は死にそうな病から回復し、再生することができた。


 海側だけではなくて、大峰山の南東側には「前鬼 ぜんき」集落があって、山岳信仰も支えていたということでした。

 山と海だけで、平地のない、ゆとりのない感じの土地なのに、この土地の力で歴史に躍り出る人たちが何人かいたわけですね。

 平清盛が平治の乱で源義朝に勝つきっかけを作るのが、やはり熊野詣でした。いろんなところで、この紀伊半島の山また山の土地は、サポート役を担っていたことになる。

 そして、三重県の東紀州にはたくさんの「き」があったんです。

 熊野市は、駅名はそうだし、行政的にもそうなんだけど、地名としては「木本(きのもと)」という町が中心です。「き」の根本の町らしい。そこから南には「市木(いちぎ)」という町があります。熊野市の東北側から、名古屋に向かっていく途中に「二木島(にぎしま)」「三木里(みきさと)」「九鬼(くき)」などがあります。

 四、五、六、七は確認できないけど、熊野と尾鷲の間に「八鬼山(やきやま)」というのもあります。そんなふうにして「き」を数える習慣があるみたいで、確かに「三鬼(みき)」さんという名字の人もいましたねえ。

 山の中には「前鬼」などの集落もある。こうした「鬼(き)」集落は、特別な人たちがいたのではなくて、何かに取り組む集団・人々がいたということなんでしょうか。

 フィールドワークしてみないと、わからないけど、何だか不思議な熊野地方と日本の歴史との関係です。



 この前、この地方へ電車で旅した時のメモを写してみます。

 尾鷲から南へ走ります。大曽根浦、九鬼、三木里、賀田(かだ)、二木島、新鹿(あたしか)、波田須(はだす)、大泊(おおどまり)、熊野市、有井、神志山(こうしやま)、紀伊市木(きいいちぎ)、阿田和(あたわ)、紀伊井田、鵜殿(うどの)、新宮になります。

 紀伊半島のメインは西側(和歌山県側)、マイナーでディープで、開発が遅れていて、何にもないのは東側(三重県側)です。でも、江戸時代なんかは、尾鷲は江戸と航路で直接つながっていて、江戸とバンバン交流したということですが、今となっては、そういう道もありません。

 それもほんの一時です。都会がいつか衰えたら、紀伊半島がふたたび輝く時もあることでしょう。なかなか想像できないけど、歴史としてはいつも転換点を握ってる地域なのだと思われます。






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