甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

石川啄木「一握の砂」(1910) その4

2015年07月09日 22時11分03秒 | 一詩一日 できれば毎日?
 啄木の「一握の砂」をまるごと文庫にした作品からピックアップしています。基本は一番前から目についたものを取り上げるという、いかにもわたし的な、行き当たりばったりの取り上げ方です。でも、何かのかたまりになっているんじゃないのと、テーマを決めてやっています。さて、今日は、友だちのことを書いた作品がいくつかあったので、それをもとにして彼の交友関係を想像することにします。


一度でも我(われ)に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと


……しょっぱなから、少し穏やかではありません。これは友を歌った作品ではないかも知れない。でも、友人面して近寄ってくるヤツはいなかったろうかと思い、そして、そいつらがいつの間にか敵となり、啄木を踏みつけにしたことがあったのではないかと、そういうかつての友人をのろうことばがこの作品になったのではないか。そう判断して無理矢理に友の部類に入れました。そうでなくてもいいですけど、そんな気がしました。

 それにしても、過激な作品です。最近のテレビドラマで、そこに名前を書くと、いつの間にかその人たちが死んでしまうという、人間の悪魔心を刺激する作品があるようですが、啄木の頃は、そんな夢物語はないので、心の中でクソーと思うだけです。それを過激に表現した。

 でも、現代は、啄木の頃よりも過激なのが当たり前になっていて、「死ね」は挨拶代わりに使われる世の中です。小学校低学年の子どもたちも平気で使うんですから、あまりピンとこないかもしれません。

 しかし、啄木の時代は違います。この恐ろしい短歌に人々は衝撃を受け、実は自分にもそんな恐ろしい部分があったと自覚させてくれる作品でした。いまは親に対しても、誰に対しても、同じように口に出してしまう時代ですから、若い人もそんなの当たり前ジャンと思うだけかな……。何だかさびしいですね。

我に似し友の二人よ
一人は死に
一人は牢(ろう)を出(い)でて今病(や)む


……具体的にだれなのか、私にはわかりません。ただ、彼のまわりの人たちがあまり幸せそうでないのかなと思ってしまいます。もちろん、啄木さんだって、あまり楽しい人生を送っているわけではない。

 いや、そもそも「楽しい人生」って、何なんでしょうね。楽しいと思えば楽しく、物足りないと思えば物足りぬ。ある程度は心の持ちようなのかもしれない。

 啄木は、お金の心配ばかりする、生活苦から離れられない、文学から遠い毎日で、それなりにウンザリしていたのかもしれません。でも、だからこそ、彼の生活苦の中からの短歌が生まれたわけで、彼がエリートとなり、生活に何の心配もなかったら、果たして歌人・小説家をめざしたかどうか。

 彼は、自らのコンプレックスをバネにして、何とかここから飛び出すために、身を削って歌を書き、小説をひねりだそうとしたと思います。ああ、何が不幸で何が幸せか、わからなくなりますね。

あまりある才を抱(いだ)きて
妻のため
おもひわづらふ友をかなしむ


……こんな見え見えの作品を書いたらダメですね。うちの奥さんなら、「何言ってるんだか」と鼻で笑われてしまうでしょう。まあ、私は自分に才能がないのをつくづく感じているので、ヒットは出ないのはわかっているので、くすぐり笑いのもらえる作品を書こうと、しょぼくれ芸人の職人技をめざしています。バカ受けもせず、客はくすりともしないけれど、とりあえずパチパチ最後の拍手をもらえる芸人さんをめざしています。

 何を私は弁解しているんでしょう。啄木さんは私みたいな四流芸人ではありません。才能はあるはずなのです。ただ、その生かし方がまだ不明で、とりあえず友に勧められて三行書きの短歌を書いて、みんなに喜んでもらっている状態です。そして、奥さんのこと、母のこと、妹のこと、生活のことに思いわずらっていた。

 これは友なのか、自画像を他人のようにしてみせたのか。そういう友だちがいたのかどうか。

打明(うちあ)けて語りて
何か損(そん)をせしごとく思ひて
友とわかれぬ

人並(ひとなみ)の才に過ぎざる
わが友の
深き不平もあはれなるかな

誰が見てもとりどころなき男来て
威張りて帰(かへ)りぬ
かなしくもあるか

うぬ惚(ぼ)るる友に
合槌(あひづち)うちてゐぬ
施与(ほどこし)をするごとき心に


……こんなことを思いながら、啄木さんはこんなふうにして自分たちの世界を見ていたのかと、当時の人は教えてもらったてゾッとしたことでしょう。それをあえて啄木は書きました。

 まわりの人は、啄木不信になってしまうでしょう。でも、彼にはカラリと笑って、「ああ、あの歌の世界、あれは都会人の孤独を書いたんだよ。全部作った世界なんだ。でも、みんなも自分の中に他人を見下す思い上がった部分があるのを感じるだろ。あれを取り出して作品化したわけさ。私の歌の自然主義なんだよ。少し古いけどね」と、言ったかもしれないです。

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ


……そして、かわいくこんな歌を書いて、花なんか買わないけれど、妻と親しむわけでもないけれど、まわりのみなさんの活躍と、自分のビンボーな状況とを見比べて、奥さんとどうしたらいいのかなと話し合ったことでしょう。

 そうした素直さも、啄木さんの魅力です。ウソだとわかっていても、この素直に今の負けを認め、そこから這い上がろうとする強さも感じることができます。これは魅力だと思いますが、どうですか。


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