甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

折竹錫(おりたけたまう)さんのことば

2024年12月05日 20時57分54秒 | ことば見つけた!

 1883(M16)生まれの内藤濯(あらう)さんのエッセイ集を読んでいます。少しずつですけど……。

 1884年生まれで(~1950 若くして亡くなられています)、大学では同じところでフランス文学を研究された方で一年後輩になるようですが、その折竹錫(たまう)さんのことを書いておられました。三高のフランス語教授やら、いろいろとされたし、いろいろ書いておられたのだそうです。そして、たくさんの原稿で気に入らないものは燃やしたりして、あまり形に残らなかったのだそうです。

 けれども、教え子のみなさんたちが『折竹錫先生遺稿集』というのを、いろんなところから集めて出してくれたのだそうです。それを同じフランス文学者として、いくつか取り上げているようです。

 その前に、三高に勤める折竹さんのおうち(岡崎あたり)を訪ねた時のこと……、
 東京方面を眺めると、書いたものが煮つまらないうちに、世にそれを送り出す人の、あまりにも多いことにぞっとすると、彼は私にぶちまけた。そんなふうに他を責めておきながら、みずからの非を責めずにおく道義心の欠如を身にしみて感じたことが、しぜん寓居の庭での一条となったのではないかと私はひそかに思う。

 じっくり書きたいことを少しずつ世に出していく。自信のないものは出さないという風にしていると、世の中とのバランスが崩れて、書いてきた原稿を庭で全部燃やしてしまうという行動になったのではないか、と濯さんはザンネンな気持ちだったんでしょうね。

 遺稿集から抜き出してくれています。

 花はやはり命の短いほうが、我々の心を惹きつける。朝顔の花そのものは、あまり面白い花ではない。ぼうとして田舎娘のように芸のない花であるが、朝はやく開いて間もなく萎れてしまうその短命さが、人の心を惹くのであろう。年若くして人に惜しまれながら逝ける詩人の詩は、そのために一層美しく感じられる。

 朝顔はたしかに芸のない花かもしれない。でも、私たちはあの一輪にどれだけ救われることか。どれだけ元気をもらうことか。そして、どれだけ朝顔が咲いてるのを忘れて、忙しいフリをしていることか。

 もし我々が、過去の霊魂と時に交渉をもつようになったなら、我々はおそらく安んじて生きていられないだろう。花は散るがゆえに美しい。古い陶器も、壊れるがゆえに愛惜される。富士は美しい。しかし十歳にして見た富士も、六十歳にして見た富士も、ほとんど差異がみとめられないというのは、すこし退屈である。

 移り変わるものとは交流ができない、というのが私たちの常識であり、それは動かせないものなのに、富士山だけはいつもと変わらないように見える(本当は少しずつ変化しているし、江戸時代にも大噴火がありました。でも、基本は不変ですね)。変わらないものと変わっていくもの。人間は、それこそ移り変わるものだから、次から次と変化していかなきゃいけない、ということかなぁ。

 どんな人里離れたところに行ったとしても、ひと椀の味噌汁があれば「我々は人間世界に引き戻される」という。そして、
 人間にとって、心のふるさとは、自然の中にも天上にも存在しない。依然わずらわしいこの人間社会の中にあるらしく思われる。

 そういうことですね。ものすごくこの世から遠ざかった山奥の暮らしに憧れたりもするけど、それは心のふるさとではなくて、あれやこれやと人間世界と関わらないとやっていけない。それは「ポツンと一軒家」という番組を見ててもそう思いますね。

 以上、内藤先生に教えてもらった折竹先生という方のお言葉の抜き書きでした。

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