あるいは、去年焼けて、今年作れり。
あるいは、大家滅びて、小家となる。
あるいは、大家滅びて、小家となる。
『方丈記』が現在の私たちに教えてくれる真理です。家というのは、何百年とそこに立つものではありませんでした。人はある程度の時間が経過すると、代替わりしていきますし、それは他人にとってはついこの間までのことなのに、当事者にはものすごい激動の時間だったりします。
家は、人よりはもう少しゆっくりではないのか、と思ったりもしますが、その寿命というかサイクルは速まっている気がします。人よりも簡単に滅びていくのではないですか。もう至る所に、屋根がくぼみ、瓦が家の中になだれ込んでいる家があったりします。瓦よりも早く、ご当主が植えていた植物たちが家全体を覆うこともあります。「人とすみかとかくのごとし」なのです。
住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わずかに一人二人なり。朝に死に、夕べに生まるる慣らひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
人も建物も、何も変わらないように見えて、それらはすべて違う人たちになっている。何という怖ろしい真理でしょう。私はどこどこの住人で、いつもの道を通り、いつもの生活をしている、という強い確信があったとしても、第三者的には、あの人はちっとも見かけなくなったけど、どうしたんだろう? と疑問に思ってもらったらいい方で、すぐに忘れられてしまうし、私の確信は時間に流されてしまいます。
たくさん見かける人たちは、いつも同じなのかというと、そうではなくて、常に移り変わっています。たとえば、京都駅に降り立ったとしたら、ものすごい人たちと外国人旅行者。混雑は同じなのだけれど、そこに踏みとどまっている人はいません。みんな流されている人たちでした。
人のいのちなんて、「うたかた」だよ、というのは厳しく、冷たい言い方です。でも、それくらい厳しく言わないとピンと来ないし、厳しい言い方に反発してたら、それこそ何も見えなくなるでしょう。うたかたは真実だし、私たちは常に流されているのです。
知らず、生まれ死ぬる人、いづ方より来りて、いづ方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、主と栖(すみか)と、無常を争ふさま、言はば、朝霧の露に異ならず。
生まれる人、死んでしまう人、どこから来て、どこへ行くのか、それは誰にもわからない。みんな自分の信ずる方向へ向かっているように見えて、何だか怪しい彼方をめざしているようで、とても不安です。
人間たちの大きなテーマである、「自分の安息の家を持つ」なんていうのは幻想なのです。という風に長明さんは言います。まあ、その通り。人間たちが長い期間のローンを抱えて建てる家は、ウタカタで、子どもたちはやがてはそこを出てしまうし、最近は受け継ぐ子どももいないから、生前に売り飛ばして、リースにするとか、それこそ生きてる時だけの仮の宿りになりました。名実ともにそうなってしまいました。
だから、うたかたであり、水滴・朝露みたいなものだよ、なんて言う。
悲観はしていられなくて、だからこそ、この仮の宿りの日々を大事にしていきたい、なんて思います。そして、長明さんの言葉をしみじみ胸に留めておきたいです。