サイエンスライターで作家の田中真知さん(男性)がこんなことを書いておられました。
ありのままの世界とはどのようにイメージできるのか。それは生まれたばかりの赤ん坊や、先天的に目の見えなかった人が手術で目の機能を回復して、初めて目でものを見たときに感じる世界に似ているかもしれない。
脳神経科医のオリヴァー・サックスは、そんな患者が初めて自分の目で世界を見たときのことを書いている。そのとき患者は
「何を見ているのかよくわからなかった。光があり、動きがあり、色があったが、すべてがごっちゃになっていて、意味をなさず、ぼうっとしていた。」
と語ったという。
そんな風に見えたそうです。ものを見るということは、今までの知ってることをつなぎ合わせて、総合的に判断し、見なくていいものは切り捨て、見たいものを取り上げて見るということだったんですね。
普通の人は、部屋を見れば、手前にテーブルがあり、その上に花瓶があり、その向こうに壁があり、絵がかかっている、といった関係性をすぐに把握することができる。
普通の人は、部屋を見れば、手前にテーブルがあり、その上に花瓶があり、その向こうに壁があり、絵がかかっている、といった関係性をすぐに把握することができる。
しかし、その患者は全ては見えているのに、物や人の境界線、遠近感、関係などがわからず、色も形も動きも全てがごっちゃにしか感じられなかったのだ。脳に信号は送られていたが、脳はそれらを意味づけることはできなかった。
ものを見るということは、ものすごくいろいろなことを脳で判断してもらって、それで見たことになってるんですね。ハイ、理解しました。それで?
「見る」とは送られてきた信号を脳が意味づけることである。
「見る」とは送られてきた信号を脳が意味づけることである。
先の患者が体験したような、全てがつながってごっちゃになっている世界に、切れ目を入れ、約束ごとやパターンをあてはめ、自分にとって理解可能なものに変換することによって、初めて「見る」ことができる。
生まれつき目の見える人は、このような作業を、生まれてからずっと行い続けている。
「見る」とは学習である。文化や環境といった約束ごとに従って、目に入ってくる信号を関連づけ「世界」をつくるのが「見る」ことである。ありのままの世界を、見ることはできないのである。
〈『美しいをさがす旅にでよう』2009 田中真知〉
そうなんです。私たちが見ている世界というのは、偏った見方によって切り取られたものであって、ありのままの世界なんてあり得ないんだ。何だかうれしいね。同じ空間にいて、同じものを見たとしても、心には違うものが映じている。だから、私たちは、ちゃんとお互いを理解し合わなきゃいけないのか。
ふり返って私は? 私は、家族やまわりの人とどれだけ理解し合えているか、これはものすごく心もとないのです。反省しかありません。ああ、困りましたね。