もう21世紀は5分の1が終わっています。あと80年あるはずだけど、22世紀はどんな世界になっているでしょうね。
私はもう悲観的です。誰も未来の地球のこと、自分たちが住む環境のこと、自分たちが生きる社会のことを考えていない気がします。
そんな中でも、特にお気楽社会である日本では、原発の寿命が60年ということになるそうです。ということは、2040年くらいまでは原発を燃やして、電気を得て行こうという方針のようです。
メガソーラーは田舎を覆いつくすでしょうか。こんなだったら、せっかく田舎のいい空気を吸いたいとか、自然に触れたいとか、都会の人たちが思って、ふと田舎にやって来たとしても、どこもかしこもソーラーパネルばかりで、雰囲気は台無しだし、どこのソーラーパネルも、ウーンという電子音というのか、発電音なのか、何か電気的なうなりを響かせているでしょう。
それはとてもブザマで、落ち着かなくて、みじめったらしい風景です。土地を遊ばせておくのも何だし、税金はかけられるし、税金対策にもなるし、お金にもなるし、田舎で南側斜面を持ってる人たちはこぞってソーラーを立ててもらうでしょう。きっとソーラーが儲かると見たら、法律も作って、その法律をかいくぐり利益を独占しようという、国内での自らの利益を考えるのが得意な人たちが暗躍するのかな。
世界で、ソーラーバネルに対する新しい考え方が生まれたら、日本のソーラー設置業者たちも慌てるでしょうか。まあみんな、お金儲けには熱心だから、そこのアンテナ(情報キャッチ)はしっかりしてるかな。
災害は続き、生き物は環境変化にジタバタしている。西日本の魚のブリが北海道で取れる。西日本のタチウオが宮城県沖に来ている。秋になったら南に降りてくるサンマたちは、全く北海道から降りてこなくなった。もっともっと生き物たちの変化はあるでしょう。人間の対応が一番遅れるはずです。「こんなに環境が変わってしまったのに、私たちはふるさとで生きていくのだ」なんてカッコイイことを言うのです。
でも、ものすごく変化したら、諦めてどこかへ移動するでしょうか。
この前、中国の遊牧民の人たちがみんな定住させられ、面白くなさそうに生きている姿を追いかけたドキュメンタリーみたいなのをチラッと見ました。こんなに環境は変わっているのに、その環境の変化にとても敏感に生きていた遊牧民の人たちの知恵を切り捨てる政策が行われています。
中国では、置かれたところで咲く政策が推し進められている。みんな都市部に来たがるけれど、田舎者は田舎で過ごさせる。都会で少し生意気な、政府に反対の行動でもとれば、いっぺんに田舎へ戻し、一生監視つきで過ごさせる。塀はないけれど、中国で生きることは見えない塀に囲まれて生きることだったようです。
その代わり、お金儲けに成功したり、何かの研究に没頭したり、政府の役に立つことをしたら、認めてあげる。そうでないヤツらはずっと管理されたままに生きる、そういうことのようです。
だから、ゼロコロナはいやだ、自由にフラフラしたい、という運動も起った。それはとても人間的なアイデア・意見でしたが、一生懸命に抑え込まれています。
中国の見えない壁と塀、日本の何ごとにつけても貧乏くさく、ウソっぽく、経済優先と言いつつ、実は仲間内だけの経済であり、切り捨てられている人たちは、その視界に入れられていない経済だなんて、要は世界と同じで分断されているんですね。持てる人たちと持たざる人たちに分けられている。
無言の分断政策は着々と進んでいる。人が群がることは悪になりました。烏合の衆であり、それらはコントロールされるべきものとなりました。持たざる人々は、指導者の言うとおりに唯々諾々と生きて行けばいいのだ、文句は言うな、黙って仕事しろ、指導者はいつも正しい。地球の未来は、そんなのは知らない。私たちが、今得られる利益を集めて、持たざる者たちにいつか分配するのだから、それまでは辛抱しろ、指導者を信じろ、時々矛盾したもの言いになったとしても、信じていれば、やがては救われるのだ、そういう圧力と空気がずっともう何年も流れている気がします。
それはきっといいことではありません。ただ何も言わないで従うだなんて、私たちは文句たれの、根性のない、すぐにへこたれる、愛情に飢えた生き物の人間なんですよ。もう好きなことしよう! 何かおかしいことがあれば、ひっそりと街頭にでも立とうと思います。