鉄橋を抜けて、そこから先には橋はありませんでした。新淀川にはいくつも橋はあるだろうけど、それに、天神橋筋六丁目駅を出た阪急と堺筋線の車両が鉄橋を渡る音はずっとしていました。それも、水門の向こうでした。
何度も伊丹空港へ下りようとする飛行機が目の前を横切りました。こんなに近いのだったら、それを待ち構えて撮ればいいと、カメラ小僧の私は言います。でも、こらえ性のないせっかちな私は、そんな意見は無視して、スタコラ歩いてしまう。落ち着かないのは父の性分なんだろうか。じっと我慢して何かを待つのはものすごく不安になるようです。
待てないけれども、何かさせてくれてたら、それをいつまでもやっている。そうしたコツコツならできる。そういうふうにできているみたいです。飛行機が通る道筋の下で、草むしりとか、穴掘りでもさせてくれたら、飛行機なんか忘れてしばらく、ヘトヘトになるまで作業しているんだけどなあ。
新淀川と大川(中之島や天神祭りでお馴染みの市内を流れる川です)の分岐点には毛馬の閘門というのがあるというのは知っていました。一度自転車でここまで走ったことがあったようなないような、とにかく知っていたんです。
でも、新淀川にそのままズドンと流れていると思っていた水は、長良川河口堰みたいに堰が作られ、水量は調節されているようでした。ですから、堰の前で水は少しだけ膨らみます。それを閘門も調節して、水量を加減している。
閘門の上まで来てみたら、そこから新淀川を仕切っている堰・水門みたいなのが見えます。橋みたいになってはいますが、普段に歩いたりする道にはなっていないようです。たまたまここまで公開してくれているようでした。
目の前の堰で止められた水が出口を求めてこちらにも来ていたようです。もっとたくさん水が来たら、それはすべて堰を越えて新淀川に流されるみたいでした。歩きながら見通しが悪いなあと思ってたら、堰に邪魔されて新淀川の方がちゃんと見えなかったからでした。
閘門に入って来る水は、二つに分かれていて、右は閉ざしてありました。船で往来することも可能なのだろうけど、あまりこちらを行き来する船はないようで、普段はストップしてある。左の水は少しだけ開いてあって、スルスルーと水が流されていました。
この閘門の近くに、蕪村生誕の碑が作られ、説明もありましたけど、蕪村さんはこんなことしてもらって、うれしかっただろうか。京都から来た水と大阪市街地へと流れる水と、新しく作られた新淀川、水の分岐を見渡せるところに設置されていました。後ろの松も、それらしく植えられています。誰が設置したものなんだろうなあ。
毛馬の閘門から向こうは、街の川になっていて、土の堤防はありません。閘門と新淀川によって守られているから、堤防を設定する必要はないのかもしれない。
街は、今も川と一緒にあるようで、人々はごく日常的に行ったり来たりしている。ここを渡ることに抵抗があった蕪村さんという人なんて、教科書の中だけの人で、それが生きてた人だなんていう実感はないでしょう。そして、その人がこの辺りで生まれたことなんて、自分には何の関係もないし、一文の得にもならないと思っている。
一文って、どれくらいの価値だろう。今の百円くらいかな。
けれども、何人かの人たちは、ここに蕪村さんが生まれたというのを、自らのつながりとして考えたいと思う人もいる。そのせめぎあいの中で、ささやかな蕪村公園というのが毛馬橋のほとりにできたそうです。
ほんとにささやかなもので、それらしい石と、ごあいさつ程度の写真プレートがあるだけです。それは最初からわかってたので、雰囲気だけを味わってきました。
もう、ここでくたびれていました。もう、どのようにして帰るか、そちらで頭がいっぱいです。環状線の駅まではもう少し歩かなくてはならないし、どうしよう。
それで、何度か見えた地下鉄にしよう! さっきまで見えてたんだから、地下に潜ったとしても、そんなに遠くはないだろうと、天神橋筋六丁目に向けて、まっすぐ川のそばを歩いてたのに、とうとう橋を渡ってしまいました。