天明9年(1780)の蕪村さんの作品にこんなのがあります。
源八をわたりて梅のあるじかな
源八は、大阪市都島の桜宮に近い淀川の渡し場なんだそうです。今は環状線が川をまたいでますし、道路だって源八橋というのがあるみたいです。
源八の渡しで川を渡ったら、たくさんの梅に迎えられて、みんなに祝福されている気分だった。そんな幸せな風景が描かれているようです。
それとも、これは蕪村さんの夢の風景なのか? 実際に梅は咲いているけれど、故郷は何も私を受け入れてくれないし、淋しい気持ちはあるけれど、人は人だけど、梅は梅で、ちゃんと私を迎えてくれた、自然のありがたみを感じた、そんな内容なのかな。
64歳の蕪村さんの作品です。現実にしろ、夢にしろ、故郷の梅を詠んだ句なのではないかと勝手に想像してみました。
明治の半ばまで、大阪はこんな状態だったそうで、現在ならまっすぐに大阪湾に注ぎ込む新淀川があるのですが、百年前にはありませんでした(現在は、右の上から左の中央にズドンと新淀川が流れています)。百年前にやっと開削して、洪水対策やら港湾振興が図られたみたいです。
京都に住んでた蕪村さんは、淀川の右岸の西国街道から大坂のまちをめざして歩いて、淀川を渡り、久しぶりに帰郷した。もう、イジワルする人たちもいないし、とにかく故郷は故郷なんだから、改めて見ておこう。やっと舟で渡ってみたら、たまたま梅の季節で、みんなから熱烈歓迎されている気分になれた、そんなものじゃないのかな。地図で見たら、「長柄(ながら)」と地名が書かれている向こう岸が蕪村さんの故郷です。
全く何も調べてないし、いい加減なことを書きました。とにかく、源八の渡しを蕪村さんは渡った、そしたら、梅が咲いていた。私はそれを故郷で見た梅と解釈したいんですけど……。
うちの梅は、満開だということは聞いてたんですけど、今年はちっとも庭仕事をしなかったせいか、梅たちはこれ幸いと、いろんなところで花を咲かせていました。
「ハチは来ていないけど、メジロがたくさん来てくれたから、受粉はしたし、実をつけるよ!」と奥さんは請け合っています。そうか、今年はうちの梅も当たり年なのか。それにしても、知らない間に満開でした。
梅切らぬうっかり亭主梅満開……私です!
十代後半に故郷を後にし、それから何十年も帰らず、用事で近くに来ても、身寄りはいないし、会いたい人もいない。住んでたところはどうなってたんだろう。とにかく、蕪村さんは帰れなかった。それよりもむしろ、お母さんの実家の丹後地方の方がはるかに彼の故郷だったんでしょう。
でも、この年になって、つい気を許して、故郷に来てしまった。
やりましたね。だったら、「春風馬堤曲」も作れたんですよ。先ほどの源八の句の二年前に作りましたからね。小さいころのトラウマを乗り越えつつあったんでしょう。
さて、私はまだ「赤川鉄橋」の下にいました。先を急いで源八橋まで行ったけど、実際は挫折して、そちらまで行けませんでした。明日、毛馬の閘門に行きます! とにかく、うちの梅が満開でした。ご近所の紅梅もきれいでした。紅梅で空も少しだけピンクがかってました。
紅梅のスキマの空もピンク色……またまた私です。