鎌倉時代は、新しい宗教が生まれた時代でしたね。懐かしいなあ、昔、勉強しました。中学生のころ、好きだった奈良のお寺さんは何をしていたんだか? あまり一般大衆の力になっていなかったのかもしれない。奈良県・大和の国は、そりゃお寺はあっただろうけど、それ以外の国はお寺はあったんだろうか。
かくして、すべての人々に開かれるために、鎌倉時代の仏教が生まれます。一部の人たちだけが極楽に行くのは不公平で、みんなが往生できるようにしなくては! 仏教の世界に、革命的なことが起こったのだと私は理解しています。
今なら、東大寺も興福寺も、ありがたく見られるけれど、平安時代までは簡単にお参りできなかったでしょう。怖いお坊さんたちもいっぱいいるし、庶民が出かけるところではなかった?
平安時代の終わりに、そうした奈良のお寺が、平重衡さんに燃やされてしまうのは、ある程度仕方のないことだったんだという気もします(ほめられたことではないけど)。奈良のお寺さんたちは、あまりに居丈高で、強引で、ムチャをしてきたところがあった。それをすべての人々に開かれるお寺にするには、だれかがリセットしなくてはならなかったのかも……。
すべてが焼き尽くされ、貴重な仏像などは避難できて、今に引き継がれてきました。でも巨大な大仏さんは、残念ながら焼け落ちてしまった。奈良時代の大仏さんがいてくれたら、どんなにかありがたい気もするのですが、人の歴史がそれを許さなかったんです。
南都仏教もリセットして、新たな活動をしなくてはならなくなります。変なお坊さんがいたようですよ。
南都、林懐僧都(りんかいそうず)、京へのぼられける時、木津の人の家にして、鮮魚を求めて食す。
奈良の林懐僧都という人が、京の都に上られる時に、その途中の木津あたりのお家に寄って魚を食べさせろと要求したそうです。
家主、心の中に誹謗(ひぼう)し思ひけり。 彼が妻の、月ごろ腹ふくれて、命失(う)せぬべし。件(くだん)の夜、夢に八童子(はちどうじ)ありて、「林懐が護法なり」と言ひて、腹をたたきて、雑穢(ざつえ)をかり出だすと見る。
その家の主は、坊主が魚を食べるだなんて、とんでもないくそ坊主だと思い、とりあえず泊めはしたけれど、イマイチ気が進まず、魚は出さないで、精進ものを出しました。さて、男の妻は、近ごろ病気になっていて、お腹がどういうわけかふくれていて、この分では危ないというというところまで来ておりました。
林懐さんを泊めた夜、夢の中に8人の童子が現れ、「林懐さんのお祈りで来ました」と言いつつ、女のおなかをたたいて、おなかにたまったものを出すようなことをしていました。
夢覚めて、腹癒(い)えぬ。わゑ、筵(むしろ)に満てり。夫にこの由(よし)を告ぐ。常の人にあらずと知り、早旦(そうたん)に苫(とま)に新しき魚を求めてすすめけり。
妻は夢から覚めて、お腹の苦しみがなくなっておりました。おなかの悪いものはすべて出てしまったようでした。夫にそのことを話しました。夫はびっくりして、さっそく新しい魚を求めて林懐さんにおすすめしたということでした。
いたれる聖(ひじり)は、かく魚鳥(ぎょちょう)をきらはぬことあり。仁海僧正(にんがいそうじょう)は、小鳥を食はれけるとぞ。さればとて、世の常の僧、このまねをすべからず。寛印供奉のたまへることあるにや。〈十訓抄 7の11〉
すぐれたお坊さんというのは、こんなふうに魚や鳥をお食べになることがあるようです。仁海僧正という方は小鳥をお食べになったということです。だからといって、ふつうの坊主が同じようなことをしていいのかというとそうではなくて、殺生はしてはいけないのですと、寛印供奉さんがおっしゃっておられましたよ。
たまたま木津の人が買ってきた魚も、いのちのように見えて、実は林懐さんの一部であって、欠けた部分を補うためには、魚を食する必要があったんでしょう。人間もいのちの中の生き物だから、いのちを体の中に入れるために、ゴハンを食べ、目のためにいいと聞くとブルーベリーを食べ、するんです。
殺生じゃなくて、再生だった。リボーンするためにサカナを食べた。不思議なことをするんですね。
奈良のお寺のお坊さんも、いろんな人がいるみたいです。不勉強でした。もっともっと知らなくてはなりません。説話文学とか読んだらいいんでしょう。高校時代みたいに「宇治拾遺」でも読んでみるかな……。
というわけで、明日は実家にいるのでお休みします。みなさま、よい週末をお過ごしくださいませ! また、日曜の晩に、花粉まみれで何か報告してみます。