秋の夜、お月さんがきれいに出てくれたら、外を散歩したくなります。
でも、実際はお酒飲んで、冷えやすくなってるから、外にも出ないで、家の中からお月さんを探すだけです。
明日は部分月食ということですが、はてさて、どこでお月さんを見たらいいんでしょう。寒いですけど、しっかり着込んだら、何とか見られるでしょうか。
二時間くらいかけてほとんど皆既月食になり、それからまた満月に戻るだなんて、なかなかの天体ショーなんですけど、見る根性あるかなあ。見たいという気持ちがなきゃ、見られないですね。
先日、BS1で「沁みる夜汽車」という番組を見ました。いろんなエピソードの再現ドラマのオムニバスです。一つの話で十分あるかないかです。
70代後半の男性のお話でした。男性は岩手か青森か、中学を出て集団就職で東京に出たそうです。もう二十過ぎになっていました。60年代後半になっていたころ、急行十和田に乗って上野から故郷に帰ることなりました。年末だったでしょうか。
ボックス席のご夫婦の前にひとり座席を見つけて、この席で地元の駅までめざすことになりました。そこへ一つだけ開いてる席に若い女性がやって来たそうです。
東北出身の若者同士、聞けば彼女は岩手の手前の「瀬峰」という駅で降りるそうでした。上野から一晩ずっと一緒に過ごすことになりました。座席はスチームはあるとはいえ、寒かったりしたようです。オッサンなら熱燗呑んで顔を真っ赤にしてフラフラ酔っぱらいたい手持無沙汰が続くはずでした。
今なら、一晩ずっとゲームするとか、ずっとマンガを読み続けるとか、とにかくひとりでどんなふうに過ごすかと、そのことで頭がいっぱいになるだろうけど、当時の若者は、寝るか、おしゃべりするか、本を読むか、それくらいしかすることはなかったでしょう。
ひととおり話をしたら、そんなにペラペラと個人的なことも話せないし、仕事の話もできないし、故郷の話といったって限界はあったでしょう。
もっと話を深めるためには、夜汽車のボックス席はせまいし、むさくるしいし、ゆとりがないし、無理だったろうと思います。家族でも、そんなところでは込み入った話はしない。恋人同士なら、早く二人だけになりたいからじっとこの公の空間ではただ我慢するとか、なんにもできないでボンヤリ外を見るだけだろうけど、外は真っ暗のはずだから、もう黙るしかなかったのかなあ。
ふと気づいたら、さっきまで彼女が着ていたコートが自分の膝にもかけられていました。そんな心遣いに胸がキュンとなったのでしょうか、男の人はもう惚れてしまったんでしたね。
だったら、住所を聞くとか、今度どこかで会いましょうと提案するか、東京のどこでお勤めしてるんですかと根掘り葉掘り聞かなきゃいけないでしょう。それが興味のある人への正式な熱意のはずでした。
でも、男の人はただその一晩の思い出だけを胸にしまって、素敵な女の人だったなあ、また会いたいなあと何十年も思い続けたそうです。
実際には、自分は地元に戻り、そこで生活を始め、結婚もして子どもたちも生まれ、いい年のオッサンになっていた。
だったら、その自らの生きてきたことを誇ればいいものを、男の人は若い頃一晩だけ隣に座ってくれた女の人のことを歌にし、曲も付けて、ローカル新聞にも取り上げられてしまいます。
いい大人が、そんなことを真面目にドラマ化しようとしても、中身がないんだから、どんなにでっちあげても、何にもならないのに、恥ずかしくもなく、思い出を美化してしまった。
すると、その女の人というのは、私の知り合いではないかと教えてくれる人がいて、何十年ぶりに再会したそうです。
男の人も、女の人も、まるで面影もなかったのだと思われます。汽車の思い出、ありますか? と訊ねてみると、もちろん女の人は何も憶えていなかった。ただ面白半分で、知り合いに言われるままに再会してしまったけれど、どうにもならなかったようです。
そして、男の人の奥さんは、「男って、どうしてこんなつまらない思い出を大事にしているんだろうね」とバサリと切り捨てコメントをして、お話は終わります。
愚かな老人のはかない思い出、男だけが何十年も大事に記憶し、それは結局みんなのもの笑いのタネになっただけで、とても「沁みる」ものではなかった。
でも、私は笑えないです。私もどれだけつまらないものをしまってあるのか、自分でも分からないくらいです。とはいえ、幸いなことにしまってあるものはどんどん風化していて、形も文字も読み取れないから、しばらくしたら取り出せなくなるだろうから、それはそれでいいんです。不幸にして、取り出してしまったら、みんなから笑われてしまう。そうなっているみたいです。