すぐつづきを書こうと思っていましたが、なかなか書けなかった。
私は十連休の取っ掛かりにいます。世の中が騒がしくて、それが腹立たしいのに、それに乗れない自分にも腹を立てたい気分だし、落ち着かないのです。
ついでに早く起きてしまって、今度は眠れなくてムシャクシャしている。
だったら、もう寝るな! と短気に起きてしまいました。まだ午前四時を過ぎたところです。何をしているんでしょう。私が見上げる三日月は、まだ東の空に出てきたばかりの顔をしていました。まだまだ月はやせ細っていくわけですね。
今年で行くと、五月の一日が、芭蕉さんたちの三月の「末の七日」になるようです。あと五日間お月さまは痩せていかなくてはならないのか。まだまだ辛抱の日々なんですね。
私もダイエットしなくちゃ! 関係ないから、江戸に行きます!
弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々(ろうろう)として、月は在明(ありあけ)にて光おさまれる物から不二の峯幽(かすか)にみえて、上野谷中の花の梢(こずえ)又いつかはと心ぼそし。
弥生も末の七日になりました。あけぼのの空はかすんでいるような、ぼんやりするような、私たちの力を吸い寄せるような、そうした感覚があります。
その中に私たちは飛び込んでいかなくてはいけない。私たちのあらん限りの力を出さないと、どこかに連れて行かれそうな、怖さを持っています。
月を探してみると、太陽の光の中で月としての輝きは失われつつあるようです。西の空の下には富士山が見えています。その頼りなさといったらありません。私たちは、富士から毎日遠ざかっていかなくてはならない。
上野のお山、谷中の町、こちらに咲いているサクラを、今度はいつ見られることでしょう。
毎年サクラを見上げて思うことです。今、このサクラの下にいるけれど、今度はどこでそれを見上げることができるのか、私の人生はどうなっていることか、たいした変わりはないようでいて、たぶん、どこかが違うし、確実におわりへとつながっていくことでしょう。
それは感傷ではなくて、事実なのだし、悲観せず、前を向いて、目の前のことに向き合って行くしか、事態は解決しません。
旅を前にして、私は何を考えているんでしょう。
そうです。これからの旅の長さをしみじみ思っているのです。さて、どうなることか。
むつまじきかぎりは宵よりつどひて舟に乗て送る。
千じゆと云ふ所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝく。
千じゆと云ふ所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝく。
私たちを見送るために、たくさんの人々が昨夜から集まっていて、舟で千住まで付いてきてくださるそうです。有り難いことです。
街道の最初の宿場町、千住で舟から降りました。そうすると、これからの旅のことがぐっと胸に迫ってまいります。どうして私は旅なんかをしているんでしょう。
私の旅が何になるというんでしょう。どうして、こんなに楽しい仲間がいるのに、それを振り切って東北の地に向かわねばならないのでしょう。
それは私にもわからないのです。わからないけれども、私はそこに行かなくてはならないという使命感を持っています。
そこには、私を迎えてくれる仲間がいるはずなのです。その人たちに会いに行かなくてはならない。その人たちとの俳諧のつながりを生み出して、その瞬間にしか作り得ない境地を得たいと思います。
それがどれほどのものなのか、それはわかりません。でも、行って、その人たちに会わなくてはならないのは確かなのです。それが私の旅です。けれども、今、目の前にいる人たちと別れねばならなくて、それは単純に寂しく、素直な涙が落ちそうになります。
行春(いくはる)や鳥啼(とりなき)魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人〃は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。
是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人〃は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。
春は今、通り過ぎていこうとしています。鳥たちが鳴いています。魚たちも涙を流すでしょうか。たぶん、そういう時があるはずです。鳥や魚がそうだとしたら、私たち人間もせいぜい悲しい時には泣きましょう。涙を流して、流れていく時間をつかむ努力をしていきましょうか。
というような句を書きました。区切りのつもりで書いてみたものの、別れを変えてくれるものではありません。とにかく、素直な気持ちで見送り、見送られして、私たちの旅は始まったのであります。