2025年のひと月がもう過ぎ去ってしまいました。風邪なのか、インフルなのか、コロナなのか、1月3日の人込みを通り過ぎてきたとき、ついつい感染してしまって、それから2週間ほど大変だったから、倒れているうち、ぎっくり腰でフラフラになっている間に、もう過ぎ去ってしまいました。
18キップでどこかに行くとか、車中泊でどこかへ、なんて夢見ているあいだに、過ぎてしまいました。
いやいや、残念がることはない。今から、気持ちを新たに行きたいところへ行けばいいではないか、そう思ったりもしますが、今は春節というから、中国の人たちが大挙してやってくるときには、おとなしく過ごすしかありません。中国の人たちだって、いろいろと自由を味わいたいのでしょう。それはわかります。でも、あまりに大勢が嵐のように通り過ぎるから、弱小民族の私たちは、小さくなるしかありません。
でも、アメリカも中国も、大国を維持するのは大変みたいだから、そんな国の威信はいらないから、キラリと光る、瑞々しい感性で生きていきたいのに、それも足腰が弱いことには、お話になりません。
せめて、自分の身の回りのことはきれいサッパリにして、ゴミのない、ムダのないシンプルな生活をしてみたい。でも、私のまわりは残念ながら、ゴミだらけなのです。何てことだ。いつも矛盾だらけです。
さて、今から20年前の2005年、何をしていたのか、世の中はどんなだったのか、割とイメージできる気はするんですけど、具体的には思い出せません。ただ、どんな本を読んでたのか、それはわかるんです。近ごろ、読んだ本のメモを整理するという、とんでもないヒマなことをしているからです。
2025年は70冊の本を読んだと、メモには書いてありました。これは自分なりに一生懸命読んだようです。でも、結局は自分の趣味としては残されてくるものもあるので、ところどころピックアップしてみると、
人権関係の本がいくつか。それらは勉強のためというのか、あまりに知らないことが多すぎて、自分たちの社会を読んだ気になっていました。勧められた本もあったような気がします。
私の趣味としては、
「義経」司馬遼太郎……2/6・日
「一葉の日記」和田芳恵(福武文庫)……2/26
「帰ってきたソクラテス」池田晶子(新潮文庫)……3/15・火
「一握の砂 悲しき玩具」石川啄木(新潮文庫)……5/7・土
「星の王子様」池澤夏樹訳(2005 集英社文庫)……10/29・土
などがありました。樋口一葉さんも大きな研究テーマでした。啄木さんは、最近は遠ざかってしまっています。
「論語について」吉川幸次郎(講談社学芸文庫)……2/27
「夜のピクニック」恩田 陸(2004 新潮社)……8/10・水
「六番目の小夜子」恩田 陸(1998 新潮文庫)……12/7・水
「論語」も好きな本でした。まだまだ読んだそばから何もかも抜け落ちていくから、一生こぼしつつ、また拾いする本なんでしょうか。恩田陸さんは、もう熱が冷めて、まるで読んでなくて、彼女も独自の方向性を見つけて、私の知らないところへ行ってしまった。
読んだ本を見てみたら、今とあまり変わらないところと、変わってしまったところがあります。でも、割と思い出せるし、ついこの間という気がする。
次の20年の1985年の読んだ本はまだ整理してませんけど(何かの役に立つかな? たぶん、役に立たないです!)、あまり変わらない気がします。趣味や興味は今と少し違うし、そんなもの読んでたのか、というのもあるけれど、これもそれなりにリアルです。
だったら、あともう一回 ×2にして1965年の記録はまるでありません。記憶はもちろんありません。残念です。×1の1975年なら記録を掘り起こせるかなあ。無理かもしれないけど、断片みたいなのはあるかな。
だから、何が言いたいのかというと、20年、40年、50年はわりとイメージできるということです。となると、これからの10年、20年はどうなのか、私が生きていたら、それなりに記録していくと思いますが、あっという間なんだろうなと思った次第です。
時間は恐ろしく早く過ぎていきます。どうにも手が付けられないくらい。ものすごい流れです。トランプさんも、プーチンさんも、ゼレンスキーさんも、ネタニアフさんも、習近平さんも、みんな泰然自若としているけど、彼らなりにものすごい流れは感じているでしょう。それは止められません。壁を作ったって、戦争をしかけたところで、いつかは流れ去ってしまうでしょう。
(日本の石破さんは、諦観があるみたいで、そんなにもがいてないように見えます。そこはなかなかいいかもしれない。前の人たちは、わざとらしく政治しているフリしてたもんな……)
だから、余計に彼らはジタバタするんだろうけど、それを諦めて、もっとさっぱりとやってもらえたらいいけど、それは無理ですね。私が諦めます。でも、人々は苦しんでいるのは確かです。