甘い生活 since2013

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孫呉の二人 中歴-59

2017年12月26日 09時11分15秒 | 中国の歴史とことば

 最初に、「コンサイス外国人名辞典」(1994 三省堂)より引用します。

 呉起 ごき BC440~381 中国、戦国時代の兵法家。衛の人。はじめ、魏の文侯に仕えたが、のち楚に逃れて悼王の大臣となり、楚の強兵に尽力。「孫子」と並称される兵法書「呉子」の作者とされている。

  孫臏 そんひん 前4世紀、中国、戦国時代の斉の兵法家。春秋時代、呉国に仕えた孫武の子孫といわれる。斉の威王に仕えた兵法家で、「孫子」の著者ともいう。

 孔子さんたちの時代から百年が経過しています。あんなに強かった呉は滅んでしまいました(BC473)。
晋の内部分裂で有力貴族の智伯さんもいません(BC453)。
晋は韓・魏・趙の三氏が分割し、封建体制のもととなった周の威烈王は三氏を諸侯として認めることにしました(BC403)

 こうなれば、格式のあるおうちで、しかも実力のある人が中国で覇者となるという雰囲気になりました。これが戦国時代です。日本の戦国とスケールは違いますが、とにかく古くて大きな戦国です。

 孫子の百年後の子孫である孫臏(そんひん)さんは、先祖がやっていたように兵法を学んでいました。何しろ戦国時代ですから、その需要があるのです。就職するには、先端の学問を学ばなくてはならない。

 孫臏さんの同窓生に龐涓(ほうけん)という人がいたそうです。いうなれば仲間です。でも、近しいものはつい嫉妬の対象になりやすいもので、すでに魏で兵法家として仕えていながら、いつか自分の存在をあぶなくさせるかもしれないと考え、先手を打ったのでした。

 龐涓(ほうけん)さんは魏で就職先があるからと、孫臏さんを魏に招待し、王に面会させているうちに罪に陥れ、両足を切断し、幽閉してしまいます。

 ああ、友だちを信じたがためにその友だちから裏切られるとは、これが戦国というものか、それとも孫臏さんの甘かったところというのか、自由に動けない体となってしまいます。

 たまたま斉の使者が魏に来ていて、それを聞きつけた孫臏さんはうまく会うことができて、魏脱出を依頼して、斉に連れて行ってもらいます。


 兵法家ですから、適当な将軍に自分を売り込んで、その人ともに戦で功名を上げなくてはならなくて、たまたま田忌(でんき)という人とつながりができて、彼を押し立てて自分も斉の威王にお目通りがかない、いよいよ活躍の場を手に入れることができました。

 状況はどうでしょう? 魏が趙を攻め、持ちつ持たれつの関係なので、趙は斉に救援を求めてきました。

 アイデアがあるんでしょう?

 「魏は趙を侵略するために精鋭の部隊を派遣しているでしょうから、趙を攻めずに、からっぽになった魏本国を攻める方が簡単です。そうすれば、魏はあわてて軍を引き返すでしょうし、そうした慌てている軍というのは浮き足立っているものです。」というプランでした。

 その結果は、桂陵というところで戦い、さんざんに魏軍を破ったということでした。

 それから十三年後、魏と趙が韓を攻め、韓は東の雄である斉に助けを求めてきます。斉は田忌(でんき)さんを将軍にして西に進撃します。

 韓を攻めていた魏の将軍は龐涓(ほうけん)さんです。南に向かっていたのを、東に軍を向けることにします。いよいよ東西から正面衝突となりますか?

 作戦を出します。「三晋(韓・魏・趙)の兵は、もともと勇猛慓悍(ゆうもうひょうかん)、斉を軽んじていますから、こちらの弱さを示したら、うまくいきますよ」と。

 斉軍は魏の土地で初日は十万のかまどをつくり、二日目は五万、三日目は三万のかまどを作らせたそうです。斉軍を追跡していた魏軍の龐涓(ほうけん)さんは喜んでしまいます。

 「斉軍は、わが領土に入って三日で三分の一に激減した。みんな逃亡してメチャクチャだぞ、そんな奴らは簡単に蹴散らしてしまえ」と、歩兵は切り捨てて、軽装精鋭の騎兵だけを引き連れ、二日の行程を一日で急追しました。

 魏から斉に向かう道筋に、馬陵という道幅の狭いところがありました。ちょうど夕暮れに魏軍が到着するだろうと予想して、兵を伏せていたのは斉軍で、そうとも知らずに魏軍は駆け抜けようとしました。

 大きな木が道端にあって、何か書いてありました。灯りを持ってこさせて、文字を見てみると、「龐涓この木の下に死せん」と書かれていて、気づくと弓矢が次から次と落ちてきて、軽装の魏軍は全滅し、龐涓さんも戦死し、見事に敵を討たれます。

 これで孫臏さんは歴史的にも社会的にも認められ、彼の兵法書も伝わっていくことになったそうです。


 さて、ことばですね。それは司馬遷さんのコメントにありました。

68【よくこれを言う者はいまだ必ずしもよく(    )わず】……雄弁な者が、必ずしも実践家であるとは限らない。

 孫臏さんと呉起さんたちの生涯を振り返り、確かにとてもいい時はあった。歴史に名前を残したことも確かである。著作もあり、その教えは今を生きる者の指針にもなっている。

 けれども、孫臏さんは友だちの誘いにそのままのっかってしまい、両足を失うことになってしまった。かたきは打つことはできたが、それでも、悔いの残る人生であったかもしれない。

 呉起さんも、戦いの場に向かうための集中力と情熱はすさまじいものがあり、たくさんの兵士が喜んで命を投げ出したかもしれない。けれども、呉起さんも、政治家としては苦いところがあり、魏の文侯の死後は楚に亡命し、楚の悼王が亡くなると、楚の貴族たちに殺されてしまうのでした。

 そういう二人の優れた才能を持ちながらも、それを生かし切れていない人生というものを歴史家として見ると、先ほどのことばが浮かんできて、なかなか思うようにならないものだ、どんなに知恵があっても、どうしようもならないことって、あるのかもしれないと司馬遷さんは考えたんでしょう。

★ 答え 68・行


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