昨日の朝、アルビノーニのオーボエ協奏曲を聞き、そのあと、ヴィヴァルディのモテット「まことの安らぎはこの世にはなく」を聞きました。
うれしかった! 走ってるいつもの道の風景がすべて吹っ飛び、ソプラノの歌い上げる空間に入り込ました。知ってはいたものの、こんなに聞きどころもあるし、曲のエアポケットみたいなのもあるし、カーブしながらニコニコしてたと思います。
対向車の人は怖かったかもしれない。いや、ただのモタモタ運転の車としか見えないかな。
それで、ふと思いました。わざわざラテン語で歌われているモテットだけど、たぶん、イタリア語で歌われたとしても、まことの安らぎはこの世にはなく、あのイエス様がおられる世界こそ、安らぎの世界なのですよ、そう教えてくれたとしても、素直に受け入れられる人はいるだろうけど、私みたいなひねくれ者は、そんなの信じないとかなんとか、あれこれごねるだろうなと。
ひねくれ者に聞かせるのではなくて、安らぎを求めている人に聞かせる歌だから、そういう人たちの何人かは、そうなのかもしれないとありがたがるでしょう。それはそれでいいんです。
そして、まことの安らぎって何だろうと思うのです。
それは死ということなんでしょうか。いや、生きるということは、安らぎのない、苦の世界ということなんでしょうか。
いや、まことの安らぎという概念そのものがウソなのではないのか?
生きるということは、面倒なことではあります。でも、それをすることが生きることなのであり、その面倒さの中に喜びがあって、それを楽しめないと生きてる意味がない、とかなんとか思いました。
まことの安らぎは、あの世に行ってももちろんありません。あの世はただ空漠とした世界です。それを安らぎというのは壮大なウソだと思います。でも、それを信じたい人がいるのも確かです。
まことの安らぎは、喧騒の中にあって、落ち着きのないガチャガチャした日々の中でフッとすぐそばにいるのかもしれない。
おい、コラッ、そんなとこでひっそりしやがって、もっとちゃんと自己主張しろ! なんて言ってはダメなんだ。
ヴィヴァルデイ聞きながら、チラッと目をやって、そこにいるねって、ニタニタしてなきゃだめなんだ。ほら、まことの安らぎは、クルマを運転してても、フッと隣にいたのかもしれない。いや、いたんです。
だから、昨日は朝から幸せすぎて、夜は疲れてたんですね。そうかもしれない。それで早く寝たんだ!