田中一村という日本画家の回顧展を見てきました。テレビでもやっていたし、花鳥画はたくさんだし、南の島の自然がテーマで、メジャーではない日本画家さんの作品群でした。
お客さんはいっぱいで、駐車場も入るまで時間はかかるし、はるばる電車とバスで見に来るお客さん、団体のバスなど、それはもうたくさんの方々が見に来ていました。
田中一村さん1908-1977は、生誕110年にあたりますし、亡くなってから41年になるわけです。その41年でどれだけ私たちはこの人に向き合えて来たのか、それは少し不安になります。世の中的にはあまり注目されず、メディアにも取り上げられもせず、埋もれた存在であったのかもしれないです。
佐川美術館に常設されている平山郁夫さんは、日本画の世界で第一人者として活躍され、東京芸大の学長さんをされたり、シルクロードの取材があったので中東やアフガニスタンなどの平和のための活動をされたり、表舞台を堂々を突き進み、生前から高い評価をされてきた人でした。
その流れで薬師寺の建物の障壁画を描いたりされていました。平山さんは一村さんより二十いくつも年下です。
平山さんのあこがれの人といえば、たぶん、唐招提寺の鑑真さんのお堂の障壁画を描いた東山魁夷さんだったでしょう。平山さんの(生き方の)お手本は東山魁夷さんで、各地に取材し、作品はたくさんの人々に受け入れられ、社会的な評価も得るし、文化的な発言力も持つ、そういう確立された画家として頂点に立つ者のスタイルがありました。
70年代は、東山魁夷さんの絶頂期で、たくさんの作品が取り上げられていました。私も一度だけ新潮社(だったかな?)のカレンダーを買ったことがありました。それくらい世の中に東山魁夷という画家さんの力があふれていたということです。
そして、日本画の頂点に立ったことのある東山魁夷さんは、実は田中一村さんと芸大の同期ということでした。成功者としての東山魁夷さんは、同期生である売れない画家の田中一村さんの作品を審査する立場にありました。
静謐で淡々とした日本画の伝統・正統を自認する東山魁夷さんは、同期生の作品を何度か落としてしまいます。自分の美意識がありますから、それに忠実であればあるほど、美意識に合わないものは落としてしまったでしょう。
失意のどん底に沈んだ一村さんは各地を旅したり、東山魁夷さんのようにヨーロッパ取材旅行なんてできないから、どんな旅をしたのかわからないけれど、九州から西日本各地、最後は熊野にまでたどり着き、そこから晩年の奄美大島の19年の生活につながるようです。
まるで熊野の地が、一村さんを再生したような感じがありますが、たまたまそうだったのだと思われます。
熊野の鬼ケ城と瀞峡を描いた作品もあったようですけど、今回私たちは見ることはできませんでした。それは残念で、いつかその絵を見たいもんだと思います。
そして、表紙の「あかしょうびん」の絵につながります。とても大きな絵で、縦長です。メインは鳥だけれども、それだけではなくて、そのまわりの描きこみがすごいと思われます。一枚一枚もう少しじっくり見られたらよかったんだけれど、とにかくすべてを見なきゃと気持ちは焦ってしまって、たくさんある作品を次から次と見ていて、確かなことはいえないのだけれど、とにかく、奄美大島で田中一村という人は、アンリ・ルソーと描く世界は似ているけれど、また別の境地を作り上げたような気がします。
ルソーはお話があります。一村さんは、日本画だから、そんなに作り話めいたものを描かずに、亜熱帯世界を日本画という切り取り方で切り取ろうとした。変な演出なんかなくて、どれだけ世界と向き合って、自分のスタイルで切り取れるか、それを突き詰めていったのではないかと思われます。
私たち(夫婦)が見た世界では、ウイリアム・モリスという装飾的・デザイン的な自然を描く人がいました。自然をとことん見て、それをデザイン的にパターン化させて、画面にずっしりと詰め込むんだけれど、デザイン化されているので、軽みもあって、そこに共通する要素も感じたりしました。
一村さんは、ウイリアム・モリスのようなパターン化された要素を持ちつつも、独自の奄美の自然を描いたはずです。私たちなら、そのまま・その色を使おうとゴチャゴチャした、まとまりのない絵になりそうです。そうならないで、すべてを呑み込んで、図式的ではあるかもしれない、でもちゃんとした自然の再生でもあり、私のスタイルみたいなものになっている、という世界を作り得た、そう思えたことでしょう。
でも、残念ながら、画壇では認められないし、同期生が牛耳っている画壇では、自分は異端でしかない、そう落胆しながらも、絵の情熱だけは燃やしていた。
そんな生き方が私にできるか、というと、もちろんできませんし、私はそうまでしてやりたい何かを見つけられていません。
いや、たいていの人がとことんやりたい何かなんて、見つけられないで、やみくもに生きているだけではないのか、そう思ったりします。
生きている時には認められなかったかもしれないけれど、自分で輝いて、亡くなってから四十年を経ても、東山魁夷さんとは別の輝きがある気がしました。
いろいろと考えさせてくれる回顧展ではあったわけです。