仁和寺シリーズの三番目、第54段のお話です。
御室にいみじき児のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばんと企む法師どもありて、能あるあそび法師どもなどかたらひて、風流の破子やうの物、ねんごろにいとなみ出でて、箱風情(はこふぜい)の物にしたゝめ入れて、双の岡(ならびのおか)の便(びん)よき所に埋み置きて、紅葉散らしかけなど、思ひ寄らぬさまにして、御所(ごしょ)へ参りて、児をそゝのかし出(い)でにけり。
仁和寺に素敵な稚児がおりました。このお稚児さんをどうにか誘い出して遊ぼうとたくらむ法師たちがいたようです。芸能のできる法師たちも呼び寄せて、おしゃれなデザインの箱ものをこしらえ、箱の形にしたものにちゃんとまとめて入れて、双の岡の、都合の良い所に埋めておいて、その上に紅葉を散らしておいて、誰も気づかぬようにして、仁和寺の御所に行き、めざす稚児さんを誘い出してしまいました。
うれしと思ひて、こゝかしこ遊びめぐりて、ありつる苔(こけ)のむしろに並(な)み居(い)て、「いたうこそ困(こう)じにたれ」、「あはれ、紅葉(もみじ)を焼(た)かん人もがな」、「験(げん)あらん僧たち、祈り試みられよ」など言ひしろひて、埋(うず)みつる木の下に向きて、数珠(じゅず)おし摩(す)り、印(いん)ことことしく結び出でなどして、いらなくふるまひて、木の葉をかきのけたれど、つやつや物も見えず。
法師たちの大好きなお稚児さんを誘い出すことに成功して、みんな大喜びです。あちらこちらをめぐり、先ほどに埋めておいた、苔の一面に生えた場所に一同が座り込みます。
「ああ、疲れましたね」
「だれか、ここの紅葉を燃やしてくれる人がいてくれたらいいのにね」
「加持祈祷(かじきとう)で効験(こうけん)がおありのお坊様が、お祈りしてごらんなされ」などとお互いに言い合っておられて、一同が、宝の箱を埋めておいた木の方に向かって、数珠をこすり、手で印形をものものしく結び、もったいぶったふるまいをして、木の葉をかきのけたのですが、まるで宝の箱は見つかりませんでした。
さあ、大変です。どうしたことでしょう。
所の違(たが)ひたるにやとて、掘らぬ所もなく山をあされども、なかりけり。
埋めたところを間違えたのだろうかと、掘らないところもないくらいに山のあちらこちらを探してみましたが、宝の箱は見つかりません。
埋(うず)みけるを人の見置きて、御所へ参りたる間に盗めるなりけり。
法師たちが埋めておいたところを誰かがこっそり見ていて、みんなが仁和寺の御所へ行ったすきに盗んでしまったのでした。
法師ども、言の葉なくて、聞きにくゝいさかひ、腹立ちて帰りにけり。
法師たちは、その場をつくろうことばも見当たらず、聞くに堪えないようないさかいをして、さんざん腹立てて、仁和寺に帰ったということでした。
あまりに興あらんとする事は、必ずあいなきものなり。
あんまりおもしろくしようとして趣向をこらすことは、かえってつまらない結果になるものである。
いい大人が、どうして一人のお稚児さんのために、大げんかをしたり、大騒ぎしたり、その子を連れ出すことにワクワクしたり、何をしているのでしょう。
動機そのものがアホらしく、どうしてそういうことになるのか、それがわかりません。
まあ、数少ないイベントであったのでしょう。わりとみんなが仲良くやっている仁和寺のお坊さんたちですから、素直でかわいらしいお稚児さんがいたら、みんながチヤホヤして、みんなのアイドルになったんでしょう。
お坊さんたちですから、女の子には目をふたぎ、年少の男の子に興味を持つように自然となっていったようです。
目的のためには、みんなで懸命に努力し、盛り上げる企画を考えるもので、たまたま近所のお山で楽しい遠足みたいなのを企画し、ほぼ計画通りに進み、みんなで宝の箱から食べ物やら、お手紙やら、盛り上げる何かを取り出したかったんでしょう。
だったら、普通に持参すればいいのに、念の行ったことに、それらが祈祷によって掘り出された形にしたかったようです。少し凝りすぎていた。
お坊さんたちの宝の箱は、一般の人に先に取り出されてしまい、お坊さんたちは仲間割れをして、ケンカまで起きてしまったということでした。お気の毒というしかありません。
教訓はそれほどなくて、凝りすぎると失敗に終わるというのは、わりと真実として私たちの実感しているところではあります。
だから、あまり凝らないで、シンプルなものづくりを心掛けたくなりますし、演出としてはおもしろくないけど、わかりやすいから、それでいいのではないか、と私なぞは思ってしまいます。凝りすぎはイヤです。でも、時には凝った演出というのもしてみたいけれど……。
難しいですね。ほどほどがいいんだろうな。
凝りすぎない、ほどほどの演出、それが私たちの工夫の見せどころですね。私は、あまりにそのまんまで、そこがおもしろくないと自分でも思ったりします。