昨日(3/2・木曜日)は風の強い一日でした。ずっと風が吹き続いていて、たくさん花粉も飛んだことだと思います。
私は、ほんの少しだけ風を浴びて、その時は何ともなく過ごせますが、体に付着した花粉にじわじわと締め付けられて、しばらくしたら落ち着くどころか、クシャミの連発になります。クシャミのあとは、しばらくはずっとハナかんで、ヒーヒー呼吸して、ふつうの人ではいられなくなります。そんな落ち着かない時間を、午後からはずっとまわりの人に迷惑をかけながら、どうにかこうにか過ごしていました。
家に帰ったら、花粉を洗い落としましたけど、後遺症は続いている感じでした。だから、22時には寝て、26時過ぎには起きてしまいました。今は午前4時ですけど、このまま朝まで起きるわけにはいかないから、どこかで再び寝る決断をして、断固として寝るでしょうか。
何を言ってんだろう。素直に寝ればいいのに、何だか眠れなくなりました。朝の光だけが救いになることでしょう。
眠れない老人の妄言のような感じです。
オッサンなので、ドナルド キーンさんの本を読み、なかなか読み進まず、仕方がないから石牟礼道子さんと藤原信也さんの対談本も読み、どっちつかずの頭が混乱する本読みをしています。根気も集中力も散漫ではあります。
改めて、キーンさんのありがたさは感じています。今、世界のどこにわざわざ日本のことを学んでみようという人がいるでしょう。キーンさんだって、初めは中国語の勉強をしようと思っていました。それがたまたま1941年頃で、どうしても日本語がわかる人が必要になり、キーンさんは流れに乗っかってそのまま日本文学を学ぶことになりました。出会いは、紫式部さんだったでしょうか。
英語で書かれた「源氏物語」の世界に、引き込まれるものを感じたということでした。
残念ながら私の「源氏物語」は、高三のときの桐壺の巻の冒頭で終わりました(いづれのおおん時……!)。そこから読み進めようという気持ちが起きませんでした。何だか、役に立ちそうな気がしないし、興味が起きませんでした。それ以来何十年も踏み入ったことはありません。ダイジェストでストーリーを追いかけたことはありますが、ちっとも面白みを感じられなかった。
英文で読めば、おもしろさが見つけられるのかどうか、それは私の英文読解の力も足りないから、その道も閉ざされているでしょう。
それなのに、キーンさんは、日本という国を好きになってくれて、日本の文学者たち、紫式部さん、能狂言の世界、芭蕉さん、正岡子規さん、石川啄木さん、明治天皇(ぶ厚い文庫本が四冊)さん、そして、三島由紀夫さんなど、実際に会った人から遠い平安の女性まで幅広く文学を通して日本に向き合ってくださいました。
今もそんな人はいるのかもしれないけれど、日本の文学を通して「日本」に向き合ってくれる人はいるんでしょうか。そもそも私たち自身が日本の文学に向き合っているのかどうか。そんなことよりも金儲け・生活ということになっていないだろうか。
未来はそんなに明るくありません。どこかに希望はあるはずですし、誰かがその希望のドアを開いてくれるのかもしれないけれど、私には、その誰かが見つかっていません。
実は、若い人たちがたくさん、未来に向けてドアを開けてくれているのに、そこにたどり着けていない私は、真っ暗な地面の底でのたうち回っているだけなのかもしれない。私が、そのドアまでいく道を探す努力をしなければいけないんでしょう。それしかないですね。
私なりに、自分のできることで、道を開くこと、そんなことばかり言ってるけど、それには何か詩みたいなものが欲しいなと思っています。
私のつまらない詩では、展望は開けませんので、キーンさんの本から抜き出してみます。
あわれ不愍(ふびん)の若者よ その進みゆく国として
いずこに故郷の美を求め いずくに芳子の愛を得ん
しかれど国家は彼を召す 大日本はこれを要す
人間万事うち捨てて 源次は道を急ぐらん
1894年にサー・エドウィン・アーノルドの詩で、大和田建樹による訳だそうです。
これは、日清戦争の時に進軍ラッパを吹いてる途中で胸を撃たれた白神源次郎という人を讃えた歌だったそうです。名誉の戦死の後で詩になって歌われ、国定教科書にも美談として語られた人がいたそうです。
ただの国策・プロパガンダではないですか。そんな根も葉もない、いい加減なお話をどうしてキーンさんは取り上げているのでしょう。そんなのお先真っ暗な詩じゃないですか? いや、当時の人にはこれが自分たちの未来を指し示すものだったという分析なんでしょうね。
アホみたいな内容だけど、確かに「不愍」であり、「健気」ではあります。そうした一生懸命さを私たちは失ってるところがあります。……、取り上げられたものは好戦的かもしれないけど、ちゃんと人の生きる道を伝える詩であったのかもしれない。
この白神さんが、ピタッとメディアから消され、次にはキグチコヘイという人に名前が変わったそうで、そうした世の中の気配みたいなものを伝えようとされたんでしょうか。
それなのに、そういうのが次から次と生み出された当時の気分、みたいなのを何となく伝えてくれています。新しい「戦前」が当たり前になっている最近の世の中ですけど、できれば、そんなムダなことをしなくていいように、世界を越える詩みたいなの、そういうのが見つかってほしいんです。
「源氏物語」のような、芭蕉さんのような、孔子さんのような、水滸伝のような、みんながおもしろがれる詩みたいなもの、見つけていきたいです。