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中世というのは、いろんな怪物が生まれた時代かもしれません。孔子さんなら一言の元にそれらを退けるでしょうけど、庶民のわれわれは、ついついそんな話に飛びついてしまいます。バカな話とわかっていても、「どうせ、そんなのありはしないよ」と思いつつ、つい聞いてしまう。
最近そういうことがあったなあと思ったら、それは「戦争」についてありました。戦後70年を経過してきた私たちは二度と戦争なんか起こさないし、そういうことに興味も関心もないのだ! そう思っていたのに、積極的平和主義というわけのわからないことを言い出して、あえて周辺各国と問題を起こそうという人がいたじゃないですか。
あんたもスキねえ、ということですけど、別にあの人だけじゃなくて、あの人を支持する私たちみんなも、実は心のどこかで戦争による爽快感を求めているのかもしれない。恐ろしいことです。
戦争なんて、何もいいことはないし、そんなのをやろうとするヤツはバカだ。ときれいさっぱり言ってあげても、「ああ、ボクはバカなんだ、鉄砲ぶっ放して、ムチャクチャなことがやりたい」という人たちも、世界にはいるでしょう。
みんな怪力乱神が好きなのです。そして、あえてトラブルの中へ転がり込もうとする。そんな危なっかしい動きをしてしまいそうになるのです。だから、それを防止するためには、徹底的に無関心で、徹底的にそういうものを遠ざけなければいけない。
いたずらに、そういうものに触れてしまうと、変な気持ちになってしまって、ケガをすることがいっぱいあるような気がします。触らぬ神に祟りなしと、昔の人は言っているのに、神に触れてはケガばかり、これが昔も今も私たちが繰り返す失敗です。
だから、次のお話は、とても笑えなくて、私たちが毎日の生活で犯しているミスの1つとして、どれくらい自分に置き換えられるか、そのハードルの1つと考えたいエピソードです。
私も、なかなか自分のこととして考えられなくて、つい他人事にしてしまいがちです。
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「奥山に猫またといふものありて、人をくらふなる」と、人のいひけるに、
「山ならねども、これらにも 猫のへあがりて、猫またになりて、人とることはあなるものを」といふ者ありけるを、
「山ならねども、これらにも 猫のへあがりて、猫またになりて、人とることはあなるものを」といふ者ありけるを、
「山の奥地では猫またという化け物がいて、人を襲うそうですよ」という誰かが話していると、それを受けた別の人が「山奥でなくても、街中でも猫が長生きして、化け物になって、人を襲うというのがあるそうですよ」と、聞いてきたようなことを言っていました。
何阿弥陀仏(なにあみだぶつ)とかや、 連歌しける法師の、行願寺の辺(あたり)にありけるが聞きて、ひとりありかむ身は心すべきことにこそと思ひける頃しも、
連歌を仕事とする法師さんがいて、この人は行願寺あたりに住んでいたようですが、ひとりで夜中に町を歩く時には気をつけなくてはいけないなあと思っていたところでした。
ある所にて夜更くるまで連歌して、ただひとり帰りけるに、小川のはたにて、音に聞きし猫また、あやまたず足もとへふとよりきて、やがてかきつくままに、頸(くび)のほどをくはむとす。
たまたま連歌の仕事で夜遅くに帰宅ということになりました。ひとりで家に帰ってくると、川のほとりでヒタヒタと追いかけてくる何ものかの音がする。
まさか、これが猫またじゃないよなと、自分の疑念を打ち消そうと必死になっていたその時、迷わずその何ものかは自分めがけてやってきた。首に食らいついてきたのである。
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肝心(きもこころ)もうせて、ふせがむとするに力もなく、足もただず、小川へころび入りて、
「助けよや、ねこまた、よや、よや」
と叫べば、家々より、松どもともして走りよりて見れば、このわたりに見しれる僧なり。
「こは如何(いか)に」とて、川の中よりいだきおこしたれば、連歌のかけものとりて、扇、小箱など懐(ふところ)に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有(けう)にして助かりたるさまにて、はふはふ(ホウホウ)家に入りにけり。
飼ひける犬の、暗けれど主(あるじ)を知りて、飛びつきたりけるとぞ。
「助けよや、ねこまた、よや、よや」
と叫べば、家々より、松どもともして走りよりて見れば、このわたりに見しれる僧なり。
「こは如何(いか)に」とて、川の中よりいだきおこしたれば、連歌のかけものとりて、扇、小箱など懐(ふところ)に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有(けう)にして助かりたるさまにて、はふはふ(ホウホウ)家に入りにけり。
飼ひける犬の、暗けれど主(あるじ)を知りて、飛びつきたりけるとぞ。
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何ものかが首に飛びついてきた。現代なら、町は明るいので、すぐにその正体を知ることができるのだけれど、昔は夜の闇は深く、自分に飛びついたのは化け物だと思い、このまま食い殺されると、大声を出して助けを求めた。「ねこまた、よや、よや」という助けを求める声も、どこかに力が無く、もう生気を吸い取られるている感じ。
でも、ドボンと川に落ちた音がするし、近所の人たちは何が起きたのかと、松明(たいまつ)を灯して外へたくさん出てくれた。よくみれば、ご近所の連歌法師さんで、水びたしになっていた。
「どうしたんです」と、みんなで助け上げてみると、法師さんのそばには愛犬がいて、クンクン言っていた。ご近所の人は、「法師さん、どうして川に落ちたんです」と訪ねてみれば、
「いやあ、化け物の猫またに襲われたと思って、飛び逃げたら、そのまま川に落ちてしまって、そこで初めて自分の家で飼っている犬だと気づいた次第です。面目ない。本当にお恥ずかしいかぎりです」と、しょげて見せた。
という話でした。徒然草89段の話です。
それで、私はふたたび思うのです。これは笑い話に形を借りた、私たちの愚かさを取り上げた話で、私たちはいつもこの法師のようになってしまう可能性があちらこちらにあるわけだから、それを見逃さず、いつも自分の姿をチェックする必要があるなあと。
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