本多忠勝さんというと、何か黒っぽい甲冑姿の絵、どこかで見たことがあります。徳川の四天王のひとりで、江戸幕府を打ち立てるまで地道な苦労した人のようです。
私がペイントで適当に描かなくても、ネットではカッコイイ姿が見られるはずですけど、まあ、趣味の(?)適当な絵を描きました。
藩のルーツである忠勝さんは、東海道の抑えとして桑名にスタンバイしてもらい、ここで地域行政をしてもらいつつ京都などの監視をしてもらった。天下が治まったら、次には姫路の方に移転してもらったそうです。そうなると、今度は西側の大名たちの監視で、毛利・黒田・島津といった大名をチッェクする働きを任せたんですね。
こうした幕府による身内の人々への人事というのは、なかなか不思議なものがあります。
四天王の井伊家はずっと彦根だったんです。酒井忠次さんは、なんと出羽の国の庄内藩に入ってもらいました。ここは、仙台の伊達家、米沢の上杉家、秋田の佐竹家、そういう外様大名を見張る位置にあります。でも、雪国で大変だったかな、という気もしますが、近年の鶴岡という町の注目度を考えてみれば、ちゃんとした穀倉地帯を割り当てられたということでしょうか。酒井家は幕末までこちらにいたそうで、戊辰戦争の時は譜代大名だということだけで敵にされ、戦いを強いられたそうです。
越後の長岡といい、会津といい、どうして朝廷軍は幕府方と戦わねばならなかったんでしょう。一応、革命ということであり、国をまとめていく時に敵を作り、それを倒すことで国家が成立するという仕組みだったのかもしれません。
戦争はしなくていいのなら、しなくていいのに、イエスかノーかの二択を突き付けて、そのどちらでもないというのを許さず、全面降伏してすべてを放棄するというものだけが認められる形だったんでしょう。降伏するかしないか、だったんですね。
そんなの突き付けられたら、降伏なんかしないし、自分たちは自分たちの暮らしを続けていきたい。あなたたちがどんな人間なのか、ちゃんとこちらに説明して、それが理解できたら降伏してもいいし、交換条件を出してもいいという、普通に考えることが当たり前なのに、それが許されなかったんです。
百数十年前の話ではありません。今だって、そんな愚かな戦争がある、というのを私たちは毎日学ばされています。
この不条理なものにどうやって抗っていけばいいのでしょう。相手にまともな理屈は通じません。命を懸けて戦うしかないのでしょうか。戊辰戦争という歴史的な事実ですけど、そこから学ばなくてはならないことがたくさんありそうです。私が学んでないだけですけど……。
あと1人、榊原康政さんは、群馬の舘林に配属されたそうです。今の感覚でいうと、東京に近いし、いいところをもらったという感じですけど、子孫たちがやらかしてしまって、越後の高田藩に移動させられたということです。
天保の改革でお馴染みの水野忠邦さんちも古い家来で、彼の「お家」は下総山川(茨城の結城市)→愛知県の岡崎(家康さんの故郷!)→佐賀の唐津という形で移転させられて来たそうです。唐津は長崎の抑えと監視の仕事がありました。南には佐賀の鍋島藩という幕末には幕府を倒す一つになる藩がありました。そこに後継ぎとして忠邦さんは成長します。
普通に唐津でお仕事をしていたらいいのに、水野忠邦さんは幕府内で権力を持ちたくて、唐津の25万石を捨てて、浜松の15万石にしてもらったそうです。これで幕府内での権力が握れる立場になり、コツコツと出世のための工作をして、1841年にとうとう老中のトップに立つそうです。47歳でやりたいことがいっぱいあったでしょうか。
けれども、そこにたどり着くまでの人柄から、仲間を失い、天保の改革は二年で挫折して、浜松から山形に移転させられてしまいます。譜代の大名でも、あまりに野心的な人は、やはり嫌われたらしい。
幕府内で権力を握ること、それは江戸時代の幕僚にとっては大事なテーマだったんですね。外様の人たちは、そうした幕府内の出世は考えられないから、なるべく目立たないようにして、ムチャな土木工事を割り当てられないように、それだけを願い、国元では自国の経営を安定させること、何か儲かる仕事は何か、そんなことばかり考えていたんでしょうか。
なかなか江戸の人々の姿は見えてこないけど、大名さんたちの苦労も少しだけわかるような気がしてきました。