小野篁(おののたかむら)さんといえば、
「わたのはら八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよあまの釣り船」
という歌を詠んだ人でした。
船びとさんよ、あいつは遠くの海に出て行ったよ、あの人に教えてあげてください、なんていう内容でした。恋の歌風ですけど、お上の気に障るようなことを敢えて書いた筆禍事件によって隠岐に流される時の歌でした。この時のお怒りの方は嵯峨上皇だったそうです。
短歌も、漢詩も、イタズラ書きも、政治のお仕事も、いろいろとこなしてしまう人だったようですが、それはもう小野氏ですから、平安時代はいろんな才能が生まれ出てきたんでしょう。
『宇治拾遺物語』にこんな話があったようです。
今は昔、小野篁といふ人おはしけり。嵯峨の帝の御時に、内裏に札を立てたりけるに、無悪善と書きたりけり。
帝、篁に、「よめ。」と仰せられたりければ、
「よみはよみ候ひなん。されど、恐れにて候へば、え申し候はじ。」
昔、小野篁という方がいらっしゃいました。嵯峨天皇様の時代に、内裏に立札がたてられて「無悪善」と書かれていました。
帝は、篁さんに、「この立札を読んでみなさい」とおっしゃいました。
篁さんは「読むことはできますが、畏れ多くて、読むことができません」ということでした。
と奏しければ、
「ただ申せ。」と、たびたび仰せられければ、
「さがなくてよからんと申して候ふぞ。されば、君を呪ひ参らせて候ふなり。」と申しければ、
帝に篁さんは言うのですが、
「とにかく、読んでみなさい」
と何度も帝がおっしゃいますので、
「さがなくてよからん(嵯峨天皇がいなくていいよね)と読むのでしょうか。ということは、お上に対してとても失礼なことでございます」と申しあげました。
「これは、おのれ放ちては、誰か書かん。」と仰せられければ、
「さればこそ、申し候はじとは申して候ひつれ。」と申すに、帝、
「さて、何も書きたらんものは、よみてんや。」と、仰せられければ、
「何にても、よみ候ひなん。」
「この立札は、あなた以外の誰が書くというのですか?」と帝はおっしゃいます。
「ですから、私は読みませんと申し上げたのでございます」と答えます。
「あなたは、文字に書いたものなら、何でも読むんでしょ」とおっしゃいます。
「はい、どんな文字でもお読みします」と答えます。
立札は、篁さんのいたずら書きというのでしょうか。帝に対するトンチ遊びというのか、少し悪乗りしすぎの遊びです。
篁さんが、若狭の「無悪」というところに赴任したという噂もあるみたいだけど、確かにそういう地名は今も残っていて、駅だか、踏切もテレビで見たことがあります。それくらい有名な地名のようです。
小野氏の本拠地の湖西地方の高島市あたりから山を越えれば「無悪」に行けますし、彼らのフィールドだったのかもしれない。そして、どういう由来でそういう地名になったのかはわかりませんけど、「さかなし」という地名は千年以上の歴史があるようです。
そういう知識を悪用するなんて、少し悪趣味ではありますね。
嵯峨天皇さまは、ご自身も書道が上手だし、お勉強もされてるし、才能のある若者たちとあれこれトンチくらべをするのを楽しまれた方なんでしょうか。でも、やりすぎると、あぶない場面も生まれますよね。