下村湖人さん訳の「論語」をずっと読んでいます。もう何か月も抱えているかもしれない。それで、ようやく半分くらいまで読みました。岩波文庫版の「論語」だと、必要なところだけをチョコッと読むだけだし、通して読むことができていませんでした。今ごろになって、やっと通して読もうとしています。
1974年の1月発行の角川文庫です。それを2年前の2017年に手に入れたのですから、本そのものも回り道をしてきたんですね。たいしたもんだ。1974年に本屋さんに行っても、たぶん私は買わなかったはずだから、考えてみれば不思議な縁です。
まあ、本のことはいいから、気になったことをメモしておこうと思います。
「忮(そこなわ)ず求めず 何を用(もっ)てか臧(よ)からざらん。」 子路(しろ)、終身(しゅうしん)これを誦(しょう)す。
あのオッチョコチョイのお弟子さんの子路さんが出てきました。はなうたみたいにして歌ってたんでしょうか。それとも、高らかにみんなに聞こえるように朗々と歌ってたのかなあ。
子路さんのことですから、みんなに聞いてもらいたくて、「私はこんなカッコイイことしてますよ!」と、知ってもらいたいから、華々しく歌ってたんでしょう。とにかく、パワフルな歌声だったんでしょう。
「害を与えず求めもせねば、どうして良くないことがおころうぞ。」子路は生涯それを口ずさんでいた。〈岩波・金谷治先生訳〉
子路さんがこれを「詩経」の中から特に選んで歌っていたことになります。私はそんな歌を持っているかなあ。今は歌を忘れていますね。昔は、いろんな歌が頭の中に入り込んで、一日中鳴りっぱなしということもありました。でも、今はすぐに再生できなくなります。再生能力は落ちたと思うな。
下村湖人さんの訳で見てみましょう。私はビックリしました。ちゃんと物語に仕上げてくれていますよ。
先師が言われた。
「やぶれた綿入れを着て、上等の毛皮を着ている者とならんでいても、平気でいられるのは由(子路さんの名前)だろうか。詩経に、
有るをねたみて
こころやぶれず
無きを恥じらい
こころまどわず、
よきかなや、
よきかなや、
とあるが、由の顔を見ると私にはこの詩が思い出される」
子路は、先師にそう言われたのがよほどうれしかったと見えて、それ以来、たえずこの詩を口ずさんでいた。
ねっ、少し物語になっているでしょ。先生が子路さんにきっかけを与えた設定になっています。
子の曰わく、「是(こ)の道や、何ぞ以(もっ)て臧(よ)しとするに足らん。」
先生は言われた、「そうした方法ではね、どうして良いといえようか。」〈岩波〉
下村版では、
先師は言われた。「その程度のことがなんで得意になる値打ちがあろう。」
という風になっています。
「不忮不求 何用不臧」の八文字を歌っていた子路さんです。最初の四文字が他者に対する願望であり、あとの四文字がそれによってもたらされることです。
確かに大したことではありません。人に対して何も希望を持たない。淡々と自分のあるべき姿を求めていく、そうしたら、やがては幸運は自然と向こうからやってくるのさー、などというのはあまりに虫が良すぎるように思います。
私たちは、人や物や自然に対して、あれこれ求めてしまいがちで、こうしてくれたらいいのにな、などというのは常に思っている。
そうした欲求を捨てることは立派です。子路さんとは反対です。子路さんは、他人には求めないかもしれないけど、いつも自分に注目してもらいたい人だったのですから。歌っていることと本人とが矛盾してたかもしれない。
子罕第九の29節(今の話の次の話)にはこんなのがあります。
子の曰わく、「歳(とし)寒くして、然(しか)る後に松柏(しょうはく)の彫(しぼ)むに後(おく)ることを知る。」
先生が言われた。「気候が寒くなってから、はじめて松や柏(ひのき)が散らないで残ることが分かる。[人も危難の時にはじめて真価が分かる]」〈岩波版〉
下村版では、
先師が言われた。
「寒さに向かうと、松柏の常盤木(ときわぎ)であることがよくわかる。ふだんはどの木も一様に青い色をしているが」
わりと淡白な訳ですね。「柏」が「かしわ」ではなくて、「かや」だという注がついているだけです。
普段はみんなに埋もれてもかまわない、でも、厳しい時にこそ、自らの真価を出してみろというお言葉なのだという気がします。
みんなでワイワイやるのもいい、でも、いざという時に、そういうことは役に立たない。みんなと一緒にいる時に、じっと静かにこれからのあるべき姿をイメージしているものこそ、大事なのだという先生の教えなのかな。
子路さんはあまりに自己主張が多すぎです。でも、そこが子路さんの愛らしさであり、憎めないところです。みんなに愛される、人の好さを振りまいている。でも、やがてムチャしすぎて亡くなってしまいます。
それは人の持っているものなのかもしれない。
子路さんは、ある意味松柏だったのかもしれません。普段からオレがオレがをやっていて、そのままの形で突っ走ってしまった。
先生は、そういう未来が見えていたのかもしれない。
地味で、目立たなくても、真価を発揮する人もいる。私はそちらの松柏をめざしたいのだけれど、さて、何によって真価を発揮できるのやら……。