甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

先生、匡の国で災難に遭う!

2022年05月31日 20時53分54秒 | 中国の思想家のことば

 あまりたいした旅のできていない私ですけど、孔子さんの旅を通じて再び自分を奮い立たせて、あちらこちら旅に出たいと思っています。今年の夏の18キップはどうなるかな。みんなちゃんと感染対策してもらって、どこの都道府県もみんな一日にひとけたということにならないかな。

 あまり期待しないで、静かに待ちましょう。つまらない国家的なイベントはないだろうし、普通に半年ほど過ごせば、11月にはカタールでサッカーのワールドカップが開かれます。カタールの夜って、日本では朝になるのかなあ。そのころまでにロシアの侵略戦争が終わればいいなあ。でも、ロシアに侵略された分を取り戻したい気持ちがありますが、ある程度の形ができたら、そこで停戦して、国境の壁を築いて、国交断絶できればいいんだけど、Pがいる限り、「ほら、おれたちは仲間だろ」となれなれしく呼びかけてくるでしょうか。

 仲間なら何万人もの人間の命がとても苦しいはずだけど、ただ侵略したいがため、力を誇示したいがために何万人の命を奪っておいて、それはないだろうと思われますが、Pにはわからないんでしょうね。

 あの人はもともと聞く耳を持っていなかったんです。それを知ってか知らでか、たぶん知らなかったと思うけど、日本のAもたくさんお小遣いをあげましたね。お小遣いだったかな。いや、もっともっと貢いだと思うけど、PとA、二人とも同い年くらいだけど、ひどさでいえば、戦争を起こしたPですけど、Pの政治生命が尽きる時まで、私は元気に旅していきたいです。それを見届けたい。

 また、つまらないこと書きました。バカみたい。



 論語の子罕編の四・五に次の文章を見つけました。まず「五」からです。

 子、匡(きょう)に畏(おそ)る。

 先生は、匡(河南省と河北省のあいだの土地だそうです)の土地を旅しておられて、とんでもない災難に遭われたのです。

 これは、ふるさとの魯の国を出て、諸国放浪していた時の話です。十四年間の中国大陸での仕事探しの旅でした。春秋時代は、諸子百家の時代でもあります。いろんな人たちが自らの主張をどこかの王様に聞いてもらおうと旅した時代です。とにかく、怖ろしいことがあったんですね。

 曰(のたま)わく、文王既(すで)に没したれども、文(ぶん)茲(ここ)に在(あ)らずや。

 先生はおっしゃいました。「文王(周という孔子さんたちが基盤とするもともとの国の創始者です)さまはもはや亡くなられたが、その文化はここに(この私自身に)伝わっているんですよ。

 あれ、いつもの先生と違って、何だか力が入ってますね。それだけ誤解されたか、ちゃんと言うべきことを言わないと危険だという先生のご判断でしょうか。どうしたんだろう?



 天の将(まさ)に斯(こ)の文を喪(ほろ)ぼさんとするや、後死(こうし 時代の後で死ぬという意味で、後の時代の人)の者、斯(こ)の文に与(あず)かることを得ざるなり。

 天がこの文化を滅ぼそうとするなら、後代のわが身は文化にたずさわれないはずだ。

 「与」は、あずかる、くみする、関与する、つながる、みたいな意味でしょうか。

 それほどに、周の文化というのは大事だったんですね。というか、中国古代の基礎となったのが周の時代で、その流れの中に孔子さんがいるわけです。仏教もないし、道教もないし、ただ古代的な自然崇拝に近い形から、少しずつ人の社会に流れる思想みたいなのが生まれたということでしょうか。

 自然じゃなくて、人間の思索の世界、それが文化というもので、それが作り上げられたとか。



 天の未(いま)だ斯(こ)の文を喪(ほろ)さざるや、匡人(きょうひと)其(そ)れ予(わ)れを如何(いかん)。

 天がこの周の文化を滅ぼさないからには、匡の国の人々に、我が身をどうするものぞ(何にもできないのだ)!」

 少しいつもの孔子先生とは違います。力が入りすぎです。お弟子さんたちも、先生、どうしたんだろう、あの時の先生の言葉って、すごかったよなあと記憶してたんですね。だから、取り上げられましたが、明快でないし、周の文化をすべて自分が背負っているだなんて、そんな思いあがったこと、先生が言われたのかどうか。

 そういう意味ではなくて、周の伝統を受け継いできた私、くらいの感じかな。

 先生の災難の説明が必要です。匡という土地があって、先生がそこを旅された。先生と風貌のよく似た陽虎(ようこ)という人が、この旅先で乱暴したことがあって、背が高い乱暴者、押し出しのきくオーラのある男の人だったんでしょう。雰囲気が似ていた。一方は乱暴な亡命者、孔子さんは背は高いけど、いつも「仁(人に対しての思いやり)」の実践を考えている人でした。全くキャラは違うのに、似てたなんて!

 陽虎のあとにたまたま通りかかって、地元の人から警戒する言葉や態度で、迫られたなんて、何という皮肉。先生57歳の旅の一コマでした。



 そのひとつ前、旅には関係ないかもしれないけど、先生の実践してきた「やらない・してはならないリスト」が書かれていました。

 子、四を絶(た)つ。意(い)なく、必(ひつ)なく、固(こ)なく、我(が)なし。

 先生がしてこなかったこと。「意」「必」「固」「我」をしなかった。

 「我」、これはわがまま、我執、我を張る、意固地になる、言うことを聞かない、そういうことかな。アイデンティティは大事だけど、それは自分を確立することであり、ワガママになることではありません。

 「固」も、頑固とか、執着とか、価値観が凝り固まるということでしょうか。先生はもう少し柔軟であったということでした。自分がミスしたら素直に謝ることが先生の大事なことでした。

 「必」とは、無理押し、ごり押し、絶対だ、なくてはならない、なかったらダメだという、融通の利かなさみたいなものでしょうか。

 「意」とは、勝手な心、意のままにやるとか、これまた価値観の固定でした。自由で、のんびりして、素直で、何でも聞き入れて、柔軟性があって、凝り固まらずに、まわりにあるものを生かしながらやって来たよ、というこれまた先生の旅の心得みたいなものだったでしょうか。

 たいていできていない気がします。時々は思い出さないとね。

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