アポ電強盗団のことを書きました。それと前後して、愛知県豊田市の二人の小六の子たちのことも悲しい事件でした。
私は本当に無力で、胸が痛くなりますが、何ともしてあげられなかった。
学校は、月に一回はアンケートをして、いじめに関してサインはないのかと気にしていた。近ごろではそれは丁寧に行われていたことでしょう。それでも、その子たちは何も書かないまま、最後の最後に、「これってイジメ?」という謎のメッセージを残して亡くなってしまいました。
いろんなメディア、映画・ドラマ・テレビその他で、「辛いことはあるだろうけど、誰かに話してみてください。しんどかったら、休んでもいいよ。学校なんか行かなくてもいい。とにかく生きることが大切! 生きていこう!」で伝えていたはずなんだけど、彼女たちには伝わってなかったかな。
賢い子たちだから、まわりの人も安心して見ていたのか、ほんとうのところはわかりませんけど、悲しい結末になったのは、どうしたらいいんでしょう。
世の中は、ウソとサギと平然とした上っ面だけの関係というのが流行して、そういうのに埋め尽くされているから、真面目に苦しんでいる自分たちがつまらなく感じるだろうし、自分たちの未来が見通せなかったのかもしれません。
どうして世の中って、やさしく人に向き合って、ホントのことを話してくれないんだろう。
ホントのことを話したら、自分が壊れてしまう、自分のプライドが守れない、自分たちの社会を守れない、そんな強迫観念があって、パブリックな時は、シレーッとした顔をしなくてはならない、みたいなのが優先されるんでしょうか。
小学校も、いのちの教育というのを大切に、いろんな形で子どもたちに日々教えてきたことでしょう。それでも、お互いを傷つけ合い、平気で他人をふみにじることが起きているのかもしれない。
小学校の責任ではなくて、私たち社会の責任でもあると思う。
そして、命、生きる、というのを伝えることも大事だけど、時々は死というものを考えるのも(考える方法がむずかしいし、一斉授業というのではダメかもしれない)大事なのだと思います。
大人だってわからないことなんだから、子どもたちに簡単に伝えることはできません。
でも、考えていきたい。どうしたらいいんだろう。
私には大好きな孔子さんのことばがあります。これはいつ頃知ったのか、それはわからないのですが、大人になって知ることができました。たぶん、四十を過ぎてくらいじゃなかったかな。どうして出会わなかったのか不思議なくらい、大事な言葉になりました。
たぶん、オッチョコチョイの子路さんだったと思われます。
先生に聞きたいことがありました。いつもの純粋な質問です。
「先生、世の中には霊魂(鬼神)みたいなのがあると思うんですけど、そうした霊魂にどんなふうに付き合ったらいいんでしょう。
人は死んだら、霊魂は抜け出たり、肉体は死んでも、霊魂はあるわけじゃないですか。おまつりしたり、供養したり、静まってもらったりする儀礼みたいなのがあると思うんですけど……。」
「霊魂がある、というのは古くから人々の間で言われてきたことではありますね。そういうものがあるのかもしれない。でも、私にはそれはわからないことなんです。」
「先生は、霊魂を信じておられないのですか?」
「あるのかもしれないし、ないのかもしれないですよ。」
「先生、人の死というものは、私たちみんなにやってくるものです。肉体は死んでしまいます。どんなに元気な者でも、病気がちの人間でも、いつかはその肉体が全く動かなくなってしまうのです。あれは、どう考えたらいいのでしょう。
私たちはどのように死というものに向き合えばいいんですか?」
「私も、それは知りたいと思うんですよ。どうして私たちは死んでしまうのか。死んだら、私たちはどうなるのか。私たちは短い生涯の中で、どこに向かって生きているのか。そして、その結末の死というものを知りたいのです。」
「先生、ぜひ、先生のお考えを教えてください。お願いします。」
「私は、答えがわからないのですよ。結末はわかっています。死はすべてが止まることです。無です。
でも、それは人間にとってどう扱うべきで、どういう意味があるのか、霊的なものがあるのか、全く私にはわからない。
私は、この年になっても、生きるということさえ、わかっていない。その意味も、価値も、方法も、いろんなことがわかっていないのです。
だからこそ、生きるとは何かというのをずっと追い求めています。どのようにして人々のしあわせを求めていくのか、どうしたら人々が穏やかに暮らしていけるか、これさえちゃんとできていない。
そんな私ですから、死というものに向き合うということがわかりません。
ただわかっているのは、精一杯生きるということを追い求めたあとには、やがて死が突然訪れるというだけです。私には、死ということをあなたに教えることはできないのです。
生きるということをわかろうとしている私がいる、ただそれだけなんです。」
そんなやりとりがあったと、『論語』には書かれています。
本文から抜き出すと、
【未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん】……生もわからないのに、どうして死がわかるだろうか。〈先進〉
→生きていく上で多くの疑問が生まれる。これらは一生をかけて自力で解決していくものである。答えも出ていないのに「死」など考えられない。それよりも現実の「生」を精一杯生きよ、という孔子の激励は今も存在する。さて、「焉(安)」は反語ですが、その読みは?
→生きていく上で多くの疑問が生まれる。これらは一生をかけて自力で解決していくものである。答えも出ていないのに「死」など考えられない。それよりも現実の「生」を精一杯生きよ、という孔子の激励は今も存在する。さて、「焉(安)」は反語ですが、その読みは?
今も体調はイマイチですけど、四十になりたては、いつ自分がコロッと死んでしまうのではないかと、ずっと不安でした。とても怖かった。
今も怖いことには変わりはないけど、少しずつ覚悟はできてきつつあるような気もします。もちろんイヤだ! 絶対に見逃してくれ! イヤイヤ、という気持ちです。
でも、父だってそれを受け入れていきました。私もいつかはイヤでも受け入れなくてはならないのです。
子どもは、どんなに偉そうにしていても、親たちと同じような生き方で生きていくものなんでしょう。
とにかく、今は、孔子先生のおっしゃる通り、「まだ生きることさえ分からない。もちろん、死なんて、全くわからない。そういうものは敬して遠ざけること。今やらなきゃいけないことをしていこう。」
というだけです!
★ 答え 「いずくんぞ」でした。