日本の政治の流れを示す言葉として「中道」というのがありますが、「極端に走らず、穏当なこと」(新明解・六版)とか、岩波もだいたい同じ。「一方にかたよらない中正なゆき方」(現代国語例解・小学館 1985)など、どっちつかずの、ほどほどの身の処し方、という意味があるようです。漢和辞典によりますと、『孟子』にはそういう意味で使われたことばがあるようですが、『論語』には見つかりません。
でも、おもしろいお弟子さんとのエピソードがありました。
冉求(ぜんきゅう)というお弟子さんが、「先生のおっしゃる〈道〉を学ぶことは、うれしく思わないわけではありませんが、自分の力不足を感じています。なかなか先生の言われるところまでたどり着けません」とこぼしたそうです。
先生はもちろん叱咤激励されるでしょう。スルーはしないのです。
「力足らざる者は、中道にして廃す。今汝(なんじ)は画(かぎ)れり。」と言われたそうです。
「中道にして廃す」とは、途中でやめる、という意味ですし、「画れり」というのは、自分で限界を作っている。ちっとも限界を越えようとしていない。というか、結果的にあきらめているようなところがある、と思われたそうです。
だから、自分で限界を決めないで、やれることを見つけてやっていく、そのうちに新たな展開が見えてくる、みたいな意味を込めたのでしょうか。
ゾクッとします。私たちは、どれくらい「中道にして廃す」という、見限って諦めることをしてきたことか。
そういうのが、実は人生というものなのかもしれないけど、大事なことは続けて行かなくちゃ。いろいろ諦めることはあるだろうけど、大事なものは捨てない。この気持ちですね。
孔子先生の時代には、「中道」はなくて、「中庸」があったのかなあ。
有名なおことばです。
53【( )たるは及ばざるがごとし】……どちらも同じく中庸を得ていない。〈先進〉
子張(しちょう)と子夏(しか)という二人のお弟子さんについて、他の弟子が先生に訊ねてみました。どちらが優れているかな、どっちを参考にしたらいいのかな、と思ったのでしようか。
先生はこうおっしゃいます。「子張はゆきすぎている。子夏はゆきたりないのだよ」と。よくわからないお答えでした。どっちがいいのかわからないから、とにかくやれている方がいいのかなと質問してみます。
すると、先生は53のおことばでした。ゆきすぎているのもダメ。ゆきたりないのもダメ。結局いいのは、ほどほどである。
よくわからないけれど、そのほどほどの加減を見つけることが大事なんでしょう。その加減というのは、だれも教えてくれない。当事者となって、現場で働き、どれくらいの働きかけ、言葉かけ、接し方がいいのか、あれこれ考えてみなさい。それは、そこにいる人にしかできないことでした。
54【中庸の徳たるや、それ至れるかな】……中庸の道徳としての価値は、いかにも最上ですね。〈雍也〉
ほどほどの加減が、適切である、うまくいくいい状態である、というのはみんなが理解しています(何となく)。でも、それは私たちの世界にあるのか?
考えてみたら、それはなかなかないのかもしれないのです。先生もおっしゃっています。「民鮮(すく)なきこと久し」[人々のあいだに乏しくなってから久しいことだ]
ということは、ちょうどいい加減の、最上の空間はなかなか生まれなくて、いつも極端に走ってしまうし、いくところまで行かないと、人間というのは満足できないのです、たぶん。
だから、よその国の領土を侵略したりする。自分の独裁は続いているのだから、せめてそれで満足すればいいのに、さらに領土を拡大しようとする。それは21世紀に起こったことでした。
人質は取り換えしたし、相手は何万人もの犠牲者が出ている。子どもたちもみんな苦しんでいるし、逃げ込むところもない。けれども、向こうにはテロ集団がいるのだから、それらを撲滅するまで戦争はやめない。
これらは極端な例だけど、同じような極端なことが行われているでしょう。人間なんて、いい加減な存在だし、ルールを守れないし、とんでもないことが好きな人たちもいるし、だれかを支配している感覚が好きな人たちもいるのでしょう。みんなとことんまで行かないと気が済まない。
それを止めてみること、どれだけできるかですね。なかなか難しいと思います。みんな何千年も苦労しているのです。
★ 53・過ぎ