何日か前、N県で四人の人の命が奪われる事件が起きました。傷ましい事件ではありましたが、私はあまり報道を追いかけずにいました。ニュースの後追いをする気力を失っていました。でも、知らなくてもほんの少しだけ聞こえてきたことがありました。
いつも一緒に歩いていた二人の女性がいた。男は二人が「笑ったから」という理由で、二人の命を奪ったそうです。別の男の人がそれを見ていて、すぐに警察に連絡をした。男は、この人には襲いかからなかったようでした。どうしてなんだろう。昔の事件であれば、次から次と襲い続けたでしょうか。ここが少しわからないところではありました。
しばらくして、警察の人たちが現われたら、再び男のスイッチは入り、ライフルで攻撃し、警察官の二人が命を落とした。最初に二人だけで現場に到着したのか、それともたくさん取り囲んだ警察官のうちの二人だったのか、それは私にはわかりません。男は「自分がやられる。だから、先手の攻撃をした」という理屈があったのかもしれない。それが本当のことなのか、私にはわかりません。
私が思ったのは、女性たちが喜んでいたら、怒っていたら、哀しんでいたら、楽しそうだったら、襲われただろうか、ということでした。喜怒哀楽を並べてみましたが、「笑う」の反対の「泣く」だったら、どうだろう、とも思いました。
おそらくですが、喜怒哀楽や泣くでは、男のスイッチは入らなかったのではないか、という気がしました。「人に笑われる」ということが、その笑った人の命を奪ってもいいくらいの、男の中では許せないことだった気がします。
どうして、そんなに「笑われる」ということに敏感になっていたのか、それは男の今までの人生が関係していたのではなかったのかなあ、とも思います。
これは、何だか「イジメ」のにおいがします。事実かどうかは、わかりません。でも、他人から笑われ、バカにされ、無視され、相手にされず、何かにつけて冷たい攻撃の対象にされた過去があったのではないか。男はそれから、自分でも心を閉ざし、なるべく自分の気持ちを乱されないように生きてきたのかもしれない(何もかも推測で書いています。間違いだらけかもしれません)。
けれども、社会は絶えず人々をさらし者にします。本人はなるべく静かに暮らしていたいと思っても、集団から孤立する者を攻撃的な視線や行為で揺さぶり、本人の気持ちを乱してやろうという方向で動いてしまう。
どうして、ひとりでいる子、なるべく人と話をしないで自分の世界に入っていたい、そういう子を放っておいてくれないのか、ものすごくイジワルなものを感じます。世の中全体がどちらかというと、孤立する人を揺さぶるのは、社会に参加させる第一歩的な見方があるんじゃないかな……。
まわりは、興味本位だったり、好奇心だったり、仲間に入れてあげようという正義感・優越感だったり、いろんな動機ではたらきかけることはあるでしょう。それはどっちにしろ一人でありたい子への思いやりのつもりだったでしょうか。
本当の思いやりでも、余計なお世話という気がしています。ひとりでいることは辛いし、何だかつまらないし、発展性がないし、同じところを低空飛行するだけだし、何ものも生まれないかもしれない。でも、心を乱さないでほしい、という気持ちも理解したい。
結局、一人でいたい子は、たいていのはたらきかけに反応できず、自分のカラに入り込んでいったでしょう。そして、その子にとって「人から笑われること」は、もう耐えられないことへとなっていき、そこから逃れるためには、自分を強くし、笑う者たちを排除しようという方向へと激化していった、というのは考えられそうです。
イジメに耐えた子どもたちは、それに対抗する何かを身につけていかないと、自分を支えていけなくなってしまっていた。
「笑われる」というのは耐えられないこと、相手に対して攻撃してもかまわない、そこまで到達していた。
逆に、「恥」という概念は、昔から言われてきたことですが、「そんなことをしているのは恥ずかしい、だから、自らのいけないことを悔い改め、反省しよう」という自らを規制する心の構え・準備みたいなものでした。「恥」を自らに照らし、自らのよくないところを、自らでコントロールすることができるものでした。
事件を起こした男には、「恥」はなかったようです。防御本能だけで生きていた。すべての敵である外側にいる者たち、これらを自らの日々の中で、攻撃してもよし、という基準になれば、すぐに行動し、反撃と先制攻撃をするだけだった。それらがほんの数時間に起こってしまい、もう取り返しはつかなくなってしまいました。
男には、踏みとどまるブレーキも何もなく、最後の砦は「家」だけだった。けれども、彼の暴発により「家」はどうなるのか、持ちこたえるのか、それは私にはわかりません。
「笑われること」と「恥」とは、方向性が違います。「笑われたら」、それを許さない。笑ったヤツ見返してやる、という方向に行ってしまう。今は、どちらかというと、みんながこの感覚に敏感です。見返してやろう、という負のエネルギーをどれだけ自分の中でプラスに換えられるのか、それはまわりのサポートが必要です。人によって傷つけられたもの(場所・心)は、人によってしか癒されないのです。
「恥」も、過剰にありすぎると、自らの行動がギクシャクしてしまう。「恥」は自分へ向かう指針ですが、コントロールするのが大変です。自意識過剰であったり、コンプレックスだったり、いつでも負のエネルギーに変わる可能性もある。それも、まわりのサポートなくしては、上手に使えないものなのかもしれない。
自分でもわからないものを、つかもうとしてあれこれ書きました。「恥」こそ大事とも思いましたが、これだって危うい。やはり、いつも誰かに自分を照射して、自分の姿を見るしか、人は生きていけないものなんだという気がします。