甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

三人の念仏観

2025年02月10日 16時58分24秒 | 聖地を巡礼しよう!

 一ヶ月以上前に貼り付けたもので、そのうちに清書しようと思いつつ、出典さえわからなくなりました。まあ、探せば見つかるのかもしれないけれど、法然さん、親鸞さん、一遍さんの三人のそれぞれのキャラがわかるかなとメモしたんだと思います。

 とにかく、三人のお坊さんをしのんでみます。

★ この話(面接において親の体を洗ってあげなさいという風に言われたこと)を聞いた時、法然、親鸞、一遍の三人を連想したんですよ。ちょうどこの話で、三人の「念仏観」がうまく譬えられるんじゃないかと。三者三葉の念仏への姿勢を比べるのによい比喩になりそうだと考えまして、まあ、私の勝手な空想なんですけどね。

 年を取った母の足を洗うんですね。なかなかそういうことって、子どもとしてもできるかどうか、そこにどんな意味があるんだろう。どうして親の足なんだろう。そんなの本人ができるだろう、なんて思うけど、それができなくなった親ということですね。

 法然さんだったら、「足を洗うという行為、それ以外に大切なものはない。たったひとつ、それだけを選び取って、人生を生き抜け」とおっしゃるんじゃないか、そんな気がしました。もちろん足を洗うというのは、称名念仏のメタファーです。法然上人は壮大な仏教体系を見事に分類した上で、称名念仏ひとつを選び取る仏道を提示した人物です。余人ではこういうことはできません。

 法然さんは、どんな実践でもいいから、食器を洗うとか、掃除をするとか、町のゴミ拾いをするとか、何か一つの実践ということでしょうか。その一つを選び取って、行ないなさい、ということでしょうか。

 また、親鸞さんだったら、「こんな硬い足になるほど苦労して育ててくださって、ありがとう。そう感謝していても、何か気に入らないことがあればお母さんを罵ったりしてしまう。ありがとうといった同じ口で罵倒する。それが我々の姿なのだ」と、さらに問いを奥に進めるに違いないと思います。それが親鸞上人の仏道です。

 親鸞さんは、人間存在の矛盾というのか、善も悪も同時進行で私たちの上で起こってしまう。だから、その悪をクローズアップして、そこから逃げられないのであれば、それに気づいた人間はどうしたらいいのか? どれほどの悪行を経験してきた人間も救われる道を模索するしかないし、気づいたらすぐに実践する。それでも、やはり悪はついて回るだろうけど、諦めずに救いを求めること。これが大事とされたんでしょうか。

 一遍さんは、「キミが足を洗っている姿、それはもはやお母さんとキミとの境界はない。境界がなくなって、自他がひとつになった姿それは南無阿弥陀仏なのだ」と語ってくれそうな気がします。一遍上人は「称うれば 我も仏も なかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と詠んだ人です。

 自分と他人の世界はない。アムアミダブツととなえたら、すべてはナムアミダブツになるよという、強引で明るい宗教観です。あまりに楽観的過ぎるかもしれないけど、私はわりと好きですねえ。

 とまあ、三祖師のお念仏って、それぞれにこんな特性があるように思います。同じような仏道を歩んでいても、微妙に問題意識が異なる。またパーソナリティも違う。遊行という形態へと進む一遍さんは、身体へ、他者へ、外へ外へ、そんな方向性を持っている。逆に、親鸞さんは内面へ、内へ内へ、と問いが進む。このふたりの対比は、とくに興味深いものがあります。しかも、面白いことに、ふたりが理想としていたのは同じ人物なんですよ。

 親鸞さんは内へ、一遍さんは外へ、方向性が違ったんですね。その二人が理想とした人は?

 それは、教信という人です。
 教信は正式なお坊さんになる前の人、沙弥だったようです。実際にはどんな人かよくわかっておりません。もともと興福寺で学僧への道を歩んでいたのですが、何を思ったのか突然それをすべて捨て去り、いまの兵庫県の加古川あたりに住みはじめます。そこで家族を持つのです。荷物を運ぶのを手伝ったりしてわずかなお金をもらって暮らします。家族みんなで念仏しながら日々を送り、生涯を終えました。

 ああ、教信という人が理想だったなんて、詳しいことはわからないですね。いろんなお坊さんたちが、試行錯誤して自らの道を切り開いたというのは確かなんですけど、私の勉強不足です。

 いわば半僧半俗のような生き方です。ごくふつうに社会生活や家庭生活を営みながら、仏教の教えを軸として生き抜いた。そこに親鸞も一遍も惹かれたのだろうと思います。
 法然も「仏教の教えに導かれて生きる」という軸さえあれば、生活の形態はどのようなものでもよいと考えていました。こうなると出家者と在家者の境界も不明瞭になります。

 頭を坊主にして、お経を読んで、墨染めの衣を着る、それがお坊さんというんじゃないんでしょうね。どんな形でもお坊さんになれる。その模索方法なんだろうな。

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