甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

ひとつひとつ心を開いていく

2025年02月09日 20時05分34秒 | 本読んであれこれ

 今日、昼前から電車で外に出て、すぐに帰って来ましたけど、その時に本を読んだ時間なんて、ほんのわずかなんだけど、感動したのでメモしておこうと思います。

 ずっと水上勉さんの『足もとと提灯』(1976・1977 集英社文庫)を読んでいて、いよいよもうあと少しで読み終わるかな、というところまで来て、いくつかの人との出会いが取り上げられています。

 たまたま講演会で出会った両足と片手のない人、その人とエレベーターで一緒になり、7年後水上さんの講演を聞いてから勇気づけられて、陶芸を始めたそうで、あの時の恩返しがしたいからと7年ぶりに出会いなおしをして、その方からは花瓶をもらった話。とまとめると、何だか水上さんの自慢話みたい。

 岐阜県の根尾谷の淡墨桜をよみがえらせるため、というのは1960年の伊勢湾台風で壊滅的な打撃を受け、枯れるばかりであった桜の枯れた根っこ300本に新しい若木の根っこをつないでよみがえらせた話。と書くと、サクセスストーリーみたいだな。でも、これもそれをしようと思い立った一人のお医者さんと、そのアイデアに賛同した人たちのささやかな思いがあったわけですね。

 そんな感動的な数ページの物語の中で、特に感心したのが舞鶴市の田井のお寺さんの話でした。水上さんは若狭の人だから、日本海側には何度も取材に行くらしくて、舞鶴市の田井という集落でのお話にすごいなと思いました。

 海側の半島の(ネットから地図を借りてきました)、30戸ほどの集落にあるお寺の話でした。

 村は入江にかくれているものの、小さな半島ゆえ、外風はもろに半島をこえて村の家々にぶっつかる。それでどの家も囲いをして、屋根に石を置いている。ここに、村の人口に比して、不似合いな、大きな寺がある。海臨寺という。



 このお寺がどうしてこんなに立派になったのか、水上さんは和尚さんに取材したそうです。当時の和尚さんは65歳だったそうで、40年前にここに赴任してきたそうです。

 ポンポン船に乗って二時間もかかり、半島をぐるり廻ってようやくついたその村と、貧しい寺を見て、(新任の和尚さんは)後悔した。たいへんな村に来たものだ。電燈もなかった。舟小舎(ふなごや)も少なかった。死んだような村の背後山のてっぺんに、これはまた屋根も破け、瓦も落ち、無住の貧寺がぽつんと立っていたからである。話に聞けば、前住和尚は生活苦で逃げた由。とんだところに来てしまった。後悔はそれであった。

 水上さんが取材したのが70年代だとしたら、65歳という和尚さんは1930年代に赴任したことになります。日本全体もそんなに豊かではなかっただろうし、電気もないところもあったでしょう。

 それでも、収入のあてのないまま、地域に赴任して、生活できればいいけれど、できないのであれば、それはもう出ていくしかないのではないか、という気がします。でも、和尚さんは若かったから、人々の間に入り込むことを始めたそうです。



 (赴任の)翌日から、村へ降りて、過去帳をふところに、その日の物故者の霊に回向して廻ることにした。……村の連中はあっけにとられた。若い僧がやってきた。聞けば二十五というが、とても、こんな貧乏寺に辛抱できるものか、まあ、見ていてやろうと、思った由である。

 村のあちらこちらの霊をお参りするという毎日を繰り返していたそうです。これが十年間続いたそうです。

 はじめは、村の連中も、馬鹿にしていたが、朝食を出す家も出た。米を持たせる家もあった。何やかや、和尚に相談を持ちかける家もあった。盆の一週間ぐらいしかつきあいのないなかった破れ寺と、三十戸の家々は不思議な連帯をもちはじめた。

 ここで、何かが起こらないと、ただ仲の良いお寺と村の人々で終わるのですが、1940年、この村の人々が仕掛けたブリ網にブリがかかり、一日で巨万の札束が転げ込んだそうです。よその村の仕掛けには何もかからないのに、どういうわけか、そんなことが起きてしまった。

 ひょっとしたら、(お坊さんがお経を読んだ相手の)その祖先をまつる心に、仏は幸運の矢をむけてくれたのかもしれぬ。この思いつきが、発展して、家々から金を集めて、寺を復興し、せめて、あの和尚の寝る部屋の雨もりを防いでやろうではないか、ということになった。

 たまたまの幸運なのかもしれないけれど、確かにそういうことはあるのかもしれない。



「和尚さんは、まだ、例の過去帳まわりをやっていますか」
「死ぬまでやめませんよ。坊主のすることはそれだけでよろしい。他のことはしません。わしが仏を守らんで、誰が仏を守れますかいね」 

 今日は、一月十六日(1975・S50)。新聞では丹後若狭は豪雪と出ている。孤村も雪だろう。白雪に埋もれた孤島のような村の、古い石段を降りて、今日も読経にまわる老僧の背姿(うしろすがた?)を思うと目頭ににじむものがある。和尚さまいつまでもご壮健で――

 日本海側に大雪警報の出ていたこのごろ、何ちなくしんみりしました。私はどれだけこういう人たちのお話を聞かせてもらっているでしょう。どれだけ人に出会えているでしょう。反省ばかりしてしまうけど、できることをしたいです。はたして何ができるやら……。

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