109 ちちははのしきりにこひし雉(きじ)の声
ここ高野山で雉の声を聞くと、父母のことがしきりに恋しく思われる。
角川文庫版をもとにして書いてみます。私みたいなボンクラなら、「キジの声父母恋しく思うなり」みたいな形にしてしまうところです。だれかを探しているような、夫婦がお互いを声で確かめ合うようなキジたちの声を聞いただけで、仲のよかった両親の姿が思い出される、みたいな句にしてしまうでしょう。
芭蕉さんは違います。最初にぶちかまします。「父母のしきりに恋しい」って、えっ、誰が? どうして? どういう理由・状況なの? といっぱいハテナマークが浮かぶでしょう。そして、それはキジの声を聞いたからなんですよと、優しくまとめてくれて、読む方としても、「あっ、そうなのか」と納得することができるのです。
そして、そこから、キジの声って、そんなに人恋しい・父母を慕わしい気持ちにさせる力があったんだなあ。それを見つけたのは、やはり芭蕉さんの力なんだ。ただ、変なトリの声だな、何のトリだい! などと芭蕉さんは思わなくて、しっかりキジをキャッチして、そこにホジションを与えてあげる、そういう差配ができるところが違います。
キジの声にも、ちゃんと位置を与えてあげる。私たちは、ただ見ただけで、「あれ、かわいい」とか、そんな程度のことしかできないのです。
貞享5年の作品だそうで、芭蕉さんは45歳の年だそうです。
実は、この句には元になるものがありました。奈良時代の庶民派のお坊さんの行基さんが、高野山で次のような短歌を作ったそうです。
山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ(玉葉集)
丁寧な、わかりやすい、行基さんらしい真面目な作品です。山鳥のホロホロと鳴いている声を聞いていると、お父さんの声に聞こえたり、お母さんの声に聞こえたりするんですよ。
こんな歌を芭蕉さんは知っておられたのですね。やはり勉強はするものですね。鳥の鳴き声で亡き父母をしのぶこと、あの行基さんでもしておられたのです。だったら私たちは、スズメでも、ツバメでも、ヒバリでも、鳥の鳴き声を聞いて、あれこれ思わなきゃ、それができてこそ日本文化を知ることとなるのだ。そういうことを思っていきたいです。
でも、行基さんはちゃんと高野山にお参りしておられるんだから、それでこそ知ることができたんですね。
あれ、高野山は空海さんが開いたわけだから、時代が合わないですね。角川文庫さんを鵜呑みにしてましたが、少し変だなあ。まあ、奈良時代からある程度は知られたところだったんだろうか。
高野山の歴史も、ちゃんと調べないといけないです。また、今度にします。
110 蛇くふときけばおそろし雉の声
芭蕉さんと歴史ということで角川文庫を読み通しましたが、これは歴史は関係ないかもしれない。たまたまキジつながりで見つけただけです。何となくおもしろいのです。
蛇を食うと聞くと、ほろほろと優しげな雉の声も恐ろしく感じられる。素直な感想のような俳句です。元禄3年・47歳のころの作品。
和歌や連歌では優美なものとされる雉子の現実的な一面を取り上げ、俳諧自由の真骨頂を示した。というふうに芭蕉さんの発見があるのだそうです。
確かに、「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜をひとりかもねむ」みたいに、山鳥やキジは、しみじみする対象でした。それをバサリと「おそろし」と言ってみました。その理由に「ヘビ食べるんだよ」というのをつけました。もうみんなビックリです。ツカミはバッチリで、もうみんな最初っからドキッとしています。
そのまま一気にたのしい世界へ飛び出しています。みんなが芭蕉さんに拍手喝采を送る姿が見えそうです。もう言い切ってしまいましたもんね。いやあ、スゴイ!
私も、アンバランスな組み合わせを見つけて俳句つくりたいですけど、思いつきませんね。簡単には無理ですね。いつもまわりを注意深く見てないと、つむぎだせない一句なんでしょう。
ここ高野山で雉の声を聞くと、父母のことがしきりに恋しく思われる。
角川文庫版をもとにして書いてみます。私みたいなボンクラなら、「キジの声父母恋しく思うなり」みたいな形にしてしまうところです。だれかを探しているような、夫婦がお互いを声で確かめ合うようなキジたちの声を聞いただけで、仲のよかった両親の姿が思い出される、みたいな句にしてしまうでしょう。
芭蕉さんは違います。最初にぶちかまします。「父母のしきりに恋しい」って、えっ、誰が? どうして? どういう理由・状況なの? といっぱいハテナマークが浮かぶでしょう。そして、それはキジの声を聞いたからなんですよと、優しくまとめてくれて、読む方としても、「あっ、そうなのか」と納得することができるのです。
そして、そこから、キジの声って、そんなに人恋しい・父母を慕わしい気持ちにさせる力があったんだなあ。それを見つけたのは、やはり芭蕉さんの力なんだ。ただ、変なトリの声だな、何のトリだい! などと芭蕉さんは思わなくて、しっかりキジをキャッチして、そこにホジションを与えてあげる、そういう差配ができるところが違います。
キジの声にも、ちゃんと位置を与えてあげる。私たちは、ただ見ただけで、「あれ、かわいい」とか、そんな程度のことしかできないのです。
貞享5年の作品だそうで、芭蕉さんは45歳の年だそうです。
実は、この句には元になるものがありました。奈良時代の庶民派のお坊さんの行基さんが、高野山で次のような短歌を作ったそうです。
山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ(玉葉集)
丁寧な、わかりやすい、行基さんらしい真面目な作品です。山鳥のホロホロと鳴いている声を聞いていると、お父さんの声に聞こえたり、お母さんの声に聞こえたりするんですよ。
こんな歌を芭蕉さんは知っておられたのですね。やはり勉強はするものですね。鳥の鳴き声で亡き父母をしのぶこと、あの行基さんでもしておられたのです。だったら私たちは、スズメでも、ツバメでも、ヒバリでも、鳥の鳴き声を聞いて、あれこれ思わなきゃ、それができてこそ日本文化を知ることとなるのだ。そういうことを思っていきたいです。
でも、行基さんはちゃんと高野山にお参りしておられるんだから、それでこそ知ることができたんですね。
あれ、高野山は空海さんが開いたわけだから、時代が合わないですね。角川文庫さんを鵜呑みにしてましたが、少し変だなあ。まあ、奈良時代からある程度は知られたところだったんだろうか。
高野山の歴史も、ちゃんと調べないといけないです。また、今度にします。
110 蛇くふときけばおそろし雉の声
芭蕉さんと歴史ということで角川文庫を読み通しましたが、これは歴史は関係ないかもしれない。たまたまキジつながりで見つけただけです。何となくおもしろいのです。
蛇を食うと聞くと、ほろほろと優しげな雉の声も恐ろしく感じられる。素直な感想のような俳句です。元禄3年・47歳のころの作品。
和歌や連歌では優美なものとされる雉子の現実的な一面を取り上げ、俳諧自由の真骨頂を示した。というふうに芭蕉さんの発見があるのだそうです。
確かに、「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜をひとりかもねむ」みたいに、山鳥やキジは、しみじみする対象でした。それをバサリと「おそろし」と言ってみました。その理由に「ヘビ食べるんだよ」というのをつけました。もうみんなビックリです。ツカミはバッチリで、もうみんな最初っからドキッとしています。
そのまま一気にたのしい世界へ飛び出しています。みんなが芭蕉さんに拍手喝采を送る姿が見えそうです。もう言い切ってしまいましたもんね。いやあ、スゴイ!
私も、アンバランスな組み合わせを見つけて俳句つくりたいですけど、思いつきませんね。簡単には無理ですね。いつもまわりを注意深く見てないと、つむぎだせない一句なんでしょう。