甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

北畠神社で、ヘビさんに出会う!

2014年08月08日 06時30分11秒 | 三重・熊野さんぽ
本殿の正面の天狗様! 何だか不思議な感じ!


 今の感覚でこの町を見ていると、津市美杉町(合併前は「美杉村」という独立した存在でした)は山奥の不便なところにあります。津市の中心から1時間以上はかかる、とてもヘンピなところです。

 どんどん住民は都市部に出て行き、小中学校はすべて合併して1つずつになっています。どんどん自立した自治体から限界地域に向けて一歩ずつ進んでいるところで、津市に編入されなかったら、自治体はあるのに、住民がいないという事態まで起こったかもしれません(まさか、そんなことはないでしょうけど……)。

 広いこの地域のあちらこちらから、ほんの少しの生徒たちを複数のスクールバスでかき集めて、学校は一応運営されていますが、一つの学年は十数人で、しかもそれぞれがバラバラのかけ離れたところに住んでいる。

 ということは、学校を離れたら交流はできない状況にあります。これは、少し特別かもしれませんが、折角の同級生も、現代に合わせて(人も社会も)希薄な感じがしませんか。友だちは十数キロ離れたところにいて、学校に行けば会えるが、それ以外の時は一切会えない。少しかわいそうな気がしますが、私にはどうしょうもありません。






 中世の「美杉」は、たくさんの人々が行き交う、交通の要衝であり、伊勢の国の政治の中心でした(それがなかなかイメージできません。もう私たちは平野暮らしが長いからですね。これからは、平野じゃなくて山暮らしが流行する気がするんですけど、あとしばらくは「平野」が続くのかな……)。



 今から六百年以上前に北畠氏がここへ入り、領国経営をしていた。それは信長さんの軍勢が攻めてくるまで二百年ほどは続いていたのです。その統治の中心がここだったというのです。

 楠木正成の千早城・赤坂城にしろ、尼子氏のお城にしろ、中世から戦国時代までお城は山の上に建てられることが多かったのです。北畠さんは、戦うためのお城を建てたのかもしれませんが、それはたぶん残っていなくて、建物で戦ったのではなくて、雲出川の上流の盆地の開けたところに町を築き、そこから地域への統治網を築いていたようです。




 しかし、戦国時代を新しい社会へと変革していった信長さんによって(信長さんは、尾張の人なので、都会の真ん中にいるのが好きです!)、山奥でこもっているヤツらをこてんぱんにしてしまいました。かくして信長さんの子どもの信雄(のぶかつ)さんによって北畠氏は滅び、後の人々が北畠氏を偲んで神社を建てたということです。こんなところに、こんな神社があるなんて! これが日本の中世の遺産です。

 中世は吉野といい、比叡山といい、戦国大名の山城といい、福井の永平寺といい、とにかく山においていろんなものが生まれたような気がします。近世・近代は山奥に文化を持ち込まずに、破壊と荒廃しか持ってこなかったと思うんですけど、これからの時代は、ふたたび山に注目しなくてはいけないと思うんですけど、どうでしょうね。

 それで、北畠神社の天狗さんの社殿以外にもお参りしてみようと思ったら、道に大きなヘビさんがいて、お前、こっちに来るのかよという感じでおられたので、恐れ多くてお参りもせず、引き下がってきたということでした。ヘビさんはただのんびりしていただけだと思いますが、私はビビッテしまった。


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