もうすぐ、水木しげるさんの「ねぼけ人生」が読み終わります。まだ、境港のことを書いていませんでした。変てこな絵などは描いたけれど、水木さんの後について行って、境港を見学してみます。
私は駐車場が見つけられなくて、適当に港に止めてしまいました。そんなに長居する気はなかったんです。
ともかく、こうして、偶然の谷間からの指令は、僕を鳥取県境港入舟町の武良という家の三人兄弟の次男として生まれさせたのである。
境港は、出雲と伯耆(ほうき)境にあたり、宍道湖と中海が日本海へ出る所である。このあたりの民話を研究した小泉八雲は、境港の盆踊りが一番元気があって面白いと記しているから、昔から元気のいい変わった人が多かったのだろう(今でも多いような気がする)。
残念ながら、ただの通りがかりの私は、妖怪商店街さえ適当に見て、もう暑いし、人はたくさんいるし、適当に切り上げて、米子に戻ろうなんて思っていました。何となく、境港の魅力は感じられてなかったようです。それよりも、もっと海とか、半島とか、自然の大きさに触れたかったんでしょう。
夏には、七夕とかお盆とかいった伝統的な行事が多い。これは、雰囲気からして神秘的な感じがした。日ごろノンキにしている寺の坊主があちこち走りまわったり、町中こぞって提灯をつったり、なんとなくいつもとちがう。
やがてムードがもりあがった頃、むかえ火がたかれるものだから、いかにも霊魂がさまよい出るのにふさわしく思われた。何日かすぎると、今度はおくり火がたかれ、それとともに、何もない空間に向かって、のんのんばあが「来年またござっしゃれや」と叫ぶと、僕は、きっと大人になれば見える何者かがいるにちがいないと、ますます信じるのだった。
水木さんとのんのんばあって、ドラマにもなりましたね。そんなに古いドラマではなかったと思うけれど、のんのんばあというお手伝いさんみたいな人に、小さい頃は英才教育をされて、不思議な子どもに育つことができたんですね。
戦争でブランクはあったけれど、基本は小さい時のまま、そんなに変わらないで、不思議なものを素直に受け入れる下地はできていたみたい。
「燈籠流し」や「精霊流し」も行われた。板の上に燈籠をつけて、ロウソクに火をともし海に流すのだが、何百もの燈籠が海面に火影を映して静かに流れていくのだ。精霊流しは、わらの船の上に、なすやきゅうりやほおずきといった仏様の供物を乗せて流すものだ。こういうものはどこへ行くのだろうかと思って、のんのんばあに聞くと、「十万億土に行くのだ」という。すると、海上の遠い所に何かあるのだ。だから、大人たちは、燈籠や供物を流して送るのだ。僕は、いよいよ、まだ知らない世界の実在を信じ込んだ。
お盆が終わる頃、海で泳ぐと、十万億土に行きそこねた精霊舟が、しおれたほおずきを乗せて岩陰に打ち寄せられているのをよく見た。哀れなような、怨念を感じさせるような、不思議な気持ちにさせられた。
ごく普通の田舎のお盆、という気もするけれど、境港から精霊船が出たら、みんな弓ヶ浜に打ち上げられたようで、弓ヶ浜はそれはもういろんなものが流れ着く、少し怖い浜辺だったのですね。