冬が近づいているというのに、梅雨あたりの山形へ向かおうとしています。どうしてだか、理由はただの旅ごころというものでしょうか。
平泉の後、一ノ関はスルーして、鳴子温泉にも宿泊せず、わざわざお馬さんのオシッコの音を聞きに行くことになります。まさか、オヤジギャグじゃないですよね。
南部道遥(はる)かにみやりて、岩手(いわで)の里に泊まる。
北のかたの南部地方へと続く街道をはるかにながめやりつつ、道をとって返して、岩出の里に泊まる。
岩出山町、現在は宮城県の大崎市になっているそうです。伊達政宗さんが米沢からこちらに本拠地を移し、少しずつ仙台平野全体を支配していったそうです。米沢からこちらってかなりの距離がありますけど、何か理由はあったんでしょうね。
岩手(いわで)とありますが、岩手県は関係ないみたいです。南部地方というのが、平泉よりも北の方角で、花巻や盛岡があります。そちらには行かなかった。確かに、もう文学的な名所はなかったのかな。さあ、方向転換しましたよ。山を越えるみたいです。
小黒崎(おぐろさき)みづの小嶋を過ぎ、鳴子(なるご)の湯より、尿前(しとまえ)の関にかゝりて、出羽(でわ)の国に越えんとす。
さらに小黒崎・美豆の小島などの歌枕を過ぎ、鳴子の湯から尿前の関にさしかかって、いよいよこれから出羽の国へ越えようとする。
クルマで一度だけ山形から宮城に抜けたことがあります。なかなか平地にならなくて、少しイヤになった記憶がありますよ。昔はもっと大変だったはずです。
この路(みち)旅人稀(まれ)なる所なれば、関守(せきもり)にあやしめられて、漸(ようよう)として関をこす。
この道は、旅人のめったに通らぬ所なので、関所の番人(仙台藩)に不審がられてしまうけれども、やっとのことで関を越える。
交易もそんなになかったのでしょう。山形から仙台に物資を移動させる意味がなかったかもしれない。そんなことよりも酒田の港から上方まで船で運ぶ方が便利だったんでしょう。今とは感覚が違いますね。
それでも芭蕉さんは、東北地方の歌枕を線でつなぐたびに出ているから、何が何でも山を越えて日本海側に出なくてはならなかったんでしょう。
山を越えたら、違う世界が見えてくる、そういう希望はあったでしょうか。
大山(たいざん)をのぼつて日すでに暮れければ、封人(ほうじん)の家を見かけて宿りを求む。
大山を登っていくうち、日もはや暮れたので、国境を守る番人の家をめあてに尋ね寄り、一夜の宿泊を頼んだ。
この大山(たいざん)というのは、鳴子から羽前に抜ける中山越えの山道のことをいうそうです。陸羽東線には中山平温泉という駅もあるみたいだけど、今ではそういう宿もあるらしい。
私は2019年に、山形側の瀬見温泉というところに泊まりましたけど、あれでも相当山の中でしたけど、まだまだ道はずっと山の中でしたよ。
三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留(とうりゅう)す。
ところが、ここで三日も風雨が吹き荒れてしまって、何の由緒もなく見るものもない山の中に逗留することになったのです。
蚤虱(のみしらみ)馬の尿(しと)する枕もと
ノミ、それにシラミ、おまけに暗がりの中で馬の小便する音までが、眠られぬ枕もとに響いてくる。何ともわびしくもおかしな目にあったものだ。
ノミ、それにシラミ、おまけに暗がりの中で馬の小便する音までが、眠られぬ枕もとに響いてくる。何ともわびしくもおかしな目にあったものだ。
★ 今日は、普段使う講談社学術文庫版ではなくて、角川文庫をもとにして書きました。現代語訳も全部通して書き直さねばならないですけど、とりあえずそのままで貼り付けておきます。
一度通ったところ、というだけでは、ちっともリアルになりませんし、もう少し高速道路から離れて、わけのわからない道を走らないと、走ったという感じが起きないかもしれません。岩出の里というのも全く知らない。いつか、岩出の里というところにも行けたらいいんだけどなあ。