第一巻の最初のところから書き写してきました。
★ 新十津川物語 川村たかし
十津川郷は奈良県の五分の一を占める。ほぼ琵琶湖の広さだ。村内には、千メートルをこえる山やまが六十以上も連なっていた。谷はけわしいVの字になり、人家は斜面にかろうじてへばりついている。谷底を深ぶかと澄明な水が走っていた。晴れた日は一日じゅう、川をいかだが流れた。長い道のりだから、いかだは何組かにこぎつかれて南のほう、新宮へとくだっていく。十津川郷六か村は秘境といえる。
十津川郷は奈良県の五分の一を占める。ほぼ琵琶湖の広さだ。村内には、千メートルをこえる山やまが六十以上も連なっていた。谷はけわしいVの字になり、人家は斜面にかろうじてへばりついている。谷底を深ぶかと澄明な水が走っていた。晴れた日は一日じゅう、川をいかだが流れた。長い道のりだから、いかだは何組かにこぎつかれて南のほう、新宮へとくだっていく。十津川郷六か村は秘境といえる。
村は貧しかった。それでいて京都に政変がおこれば、男たちは刀をぶちこみ槍をかいこんで、すっとんでいく。天皇を守るためだった。南北朝のときもそうだったし、明治維新のときもそうだった。報酬は初めから当てにしていない。都の騒ぎが終われば、さっさと山の中へ帰ってきた。気位が高く、にわかに強力な野武士集団として団結してしまう。
起源は南北朝のころなのか、後醍醐天皇さま他の南朝を支える集団として活動していくうちに、環境も隔絶されているので、山また山の山奥に住む人々は、特別な気風を持つことになりました。
基本はお百姓というのか、山に住む人々なのです。木を切ったり、それを売ったり、小さな畑で耕作したりしていた。でも、何か要請があれば、時代の節目に飛び出していく力のある野武士的な集団でもあったそうです。
不思議な人々が存在していた。
それだけに、始末のわるい村ともいえる。以前は十津川郷は一村だったし、もっと広くもあった。そのせいか、江戸時代でさえ、どこの領地にも組み込まれていない。直接には四十キロほど北にある五條の代官支配になっていたが、年貢はとらなかった。類のない郷士たちの村だ。
〈とんと十津川ご赦免どころ、年貢いらずのつくりどり〉
という歌がある。歌には〈どうだい、ただの百姓、きこりとはちがうぞ〉という誇りが顔をのぞかせている。けわしい山の斜面にへばりついて暮らしながら、明治以後は維新の功績によって全村あげて士族となっていた。
〈とんと十津川ご赦免どころ、年貢いらずのつくりどり〉
という歌がある。歌には〈どうだい、ただの百姓、きこりとはちがうぞ〉という誇りが顔をのぞかせている。けわしい山の斜面にへばりついて暮らしながら、明治以後は維新の功績によって全村あげて士族となっていた。
雨が断続的に深い山やまをつつみはじめたのは、昼ごろになってからからである。夜には風が出た。翌朝、風は次第に退いたが、雨はいっこうにおとろえる気配がない。時間がたつにつれて、ますます激しくなる。
戊辰戦争にも参加した田舎武士たちがいたそうです。隊長は誰で、どれくらいの活躍をしたのか、あまり聞いたことはありませんでした。でも、明治22年ですから、中堅どころの人たちはみんな東北各地を転戦したようです。そして、ちゃんと帰ってきた。
中心人物のいない、ボランティア精神あふれる皇室のための軍団ですから、だれかが出世するのではなく、村全体が士族になるという形式的な褒美をもらったようです。そして、士族といっても、何のメリットもないし、今まで通りの半農半武士という生活だったことでしょう。
その村全体がものすごい雨に襲われていたようです。3日間降り続くことって、現代では珍しくなくなってきたけれど、毎年日本のどこかで起こる豪雨災害が、たまたまここで起きてしまいました。
「責任感の強い人だけに、だれかがおくれても助けにいきなさったと思うがよ。勇敢でやさしい本物の十津川武士じゃ。」
「それにしても、鉄砲玉の下では生きて帰ってきて、水のせいで死ぬとはのら。」
「まったく……」
もう二十二、三年もまえ、官軍は京都から越後へ出て長岡城を攻めた。北越戦争のそのとき、十津川兵二百人が出撃したが、死傷は八十一人に達した。それほどの激戦だった。十九歳だった荘一郎も刀を振りまわして戦った一人だ。この家の留造(とめぞう)も輜重隊(しちょうたい)という荷物運びとして戦いに加わっている。二人ともふしぎにかすり傷ひとつせずに生きのびた。
十津川郷士たちは、菱形の中に十の字をつけた旗印をつけていた。初めは丸に十の字だったが島津が同印なので、同じ官軍の中ではまちがわれやすい。朝廷の指図で旗印をあらためた。禁裏から旗印をいただいたものも少ないことだろう。天皇の近衛兵をもって任ずる〈菱十〉の集団は、命知らずの戦いぶりをしたことになる。
「ラシャの服に金ボタン。腕には錦のきれをつけ、重い鉄砲肩にかけ、薬かごとかばんを十字にかけ、長い刀を落としざし。短い刀をおっぱさみ、ズボンの下には脚絆(きゃはん)がけ、足にはわらじをきりりと結び、かぶるは江川の狙笠(ねらいがさ)。笛と太鼓でヒョードンチャン……」
酔うと荘一郎は、同じことをなんどもくり返したものだ。
酔うと荘一郎は、同じことをなんどもくり返したものだ。
というふうに紹介された荘一郎さんは、主人公のお父さんで、山崩れが起きる直前にみんなで避難した時、しんがりを務めた妻を迎えに行って、二人とも被害に遭ってしまうのでした。
災害においては、人はどんなことが起こるかわかりません。今朝のスクールバ襲撃事件でも、銚子沖の貨物船沈没事件でも、命はそこにあった。でも、それをどうすることもできなくて、目の前で奪われていくのをどうにもできない私たちがいます。
「仕方がないよ」は慰めにならない。「すみませんでした」と頭を下げて、ただ祈るだけしかできない気がする。
私たちはたいてい無力で、大事な時に役に立てない。
ここでも、そうでした。主人公は途方にくれます。でも、兄が北海道に移住を決めたし、そちらに行くことに決めたようです。
とにかく、十津川の歴史が不思議で、とりあえず抜き書きしました。