折り紙を見なくても、外に行けばアジサイは今盛りです。
アジサイって、こんなにたくさん私たちのそばに咲いてたなんて、十代、二十代の頃は知らなかったと思います。
存在を知ったのも、かなり後だと思われます。どんなにキレイに咲いてても、何にも見えてなかったなんて、私ってうかつに生きていたものでした。
私だけではなくて、たくさんの人たちが紫陽花のありがたさを若い時は見つけられてなかった、というのであればいいんだけど、とにかく、若い時に見落としているものってありますね。
見落とし、不注意、うっかりスルー、どれだけ私たちはそんなことを繰り返しているのか、もう恐ろしいくらいにそうなっているかもしれません。もう、私たちって、そういう生き物なのだと開き直って、せいぜい見られるものをしっかり味わおうと思う方がいいような気もします。
今の私は、あじさいの有り難さを知ってるんですか?
知っているというよりも、必死になって季節の移り変わりの中で変化していく様子を見つめていたいとは思っていますし、切りそろえられたところから見事に復活して大きな花のお山になっていくのが奇跡の復活劇みたいだし、茎そのものも、生気に満ちているようです。
切り取られても、しばらくはずっと木みたいにがっしりと枠を守ってたりして、どこからあんな力が湧いてくるのか分かりませんけど、がっしりとした枠組みをもって咲いているようです。
その花のお山の中には、カエルがいたり、トカゲがいたり、いろんな生き物たちが高層の構造物の中で生活しているようです。
生活する分には、建物の中にいればいいし、食べ物探し、仲間探しなどで外に出る時も、構造物の高い視点から他の季節では感じられない展望で、この雨の季節を見渡せるでしょう。
私も蛙になれたら、運動もしないで一日ずっとアジサイマンションで寝そべっていることでしょう。時には運動する意味で建物を上がったり下りたりするとかしてみたらいい。地面に下りないでずっと毎日過ごせたら、引きこもりではないけれど、優雅な生活を送れるでしょうか。
いや、生き物たちの世界はそれなりに日々悪戦苦闘なのかもしれないし、そんなに甘いものではないのかな。
昨夜、奥さんのアジサイ作品を取り込んだ後、少し休憩と思ってたら、そのまま寝てしまいました。ああ、なんということでしょう。
奥さんの作品は、あじさいへのオマージュですね。あんなポコポコとした構造物を作り上げてしまうあじさいに対して、アジサイそのものを作り上げることはできないけれど、せめてあの立体感を出してみようとした。それを見る人に、こんなことができるんだ、こんなものがあるんだ、アジサイっていうんだと気づいてもらうきっかけになるはずです。
どれくらいの子どもさんたちが、出会ってくれるか分かりませんが、とにかく、出会う機会はいろんなところにあればいいし、小学校の図書室に紙のアジサイはひょっこり現れるはずです。