★ 少し前に書いてたものを載せてみます。読み返してみたら、すぐに横道にそれていて、肝心のところが深まっていないようです。次からもう少し大事なことを的確に語れるようにしたいです。
私たちだけでなく、世界全体が失っています。その昔、聖徳太子さんという方がこの国の歴史の中にいたのか、いなかったのか、そこは微妙だし、あれこれとわからないことがありますけど、そういう時代からどれだけの歳月が過ぎたというんでしょう。
聖徳太子さんの時代から千数百年経っている世の中ですが、相変わらず、ミサイルは打ち続けられ、それらに対抗するためか、それとも波風だけを立たせるために(挑発のため?)日米韓の軍事演習をしてみたりして、どれだけ役に立つのか、ミサイルを実際に打ち込んできたとしたら、どれだけ対抗できるのか、私にはわかりません。そして、混乱は続いています。みんなカリカリしているようです。
むしろ、お互いが対立していくために、無言の合同軍事演習を行い、支持率が低迷したとあれば、その援護射撃のようにミサイルを飛ばして、国内世論を駆り立て、やはり対抗できる専守防衛国家を作らねばならないし、先制攻撃の手段も持ってもいい、そういう議論をするべきだ、だなんて!
本当にミサイルが必要なのか、軍事演習が役に立っているのか。
ミサイルは、私たちを不感症にさせるためなのか、それとも不寛容にさせるためなのか、国内への見せしめか、もう最初のところがわからないですね、残念ながら。
軍事的な技術開発・訓練をしつつも、交渉の窓口はしっかりと開いてくれればいいのに、それはもう閉ざされたままです。
横田めぐみさんは、いつ日本に帰ることができるんだろう。拉致被害者の会が日本国内に誰もおられなくなるまでずっと没交渉は続くんだろうか。暗澹たる気持ちです。
ミサイルを打ち続ける国とも、着実に交渉できるしたたかさを持ってもらいたい。独裁的な権力者が、その権力を維持するために無理矢理ルールをねじ曲げているとしても、それでも交渉のチャンネルを作ってもらいたい。
ずっと、私は思っていますけど、おエラ方がプンプンしているから、自分たちも交渉しなくていいんだと、実務レベルの人たちは思っているのか。できれば、プンプンしないで、真面目に着実に交渉してほしいんだけど、どうなっているのかなあ。
『論語』を久しぶりに読みたくなったんです。いくつかの言葉を取り上げて、それらに関して講義をされたのをまとめたという古い本を読んでいます。それらの講義は、スッと頭に入らなくて、わりと停滞はしています。それを踏みとどまって孔子先生たちの言葉をかみしめたりするのは、大事だと思います。
わりと前の方、巻一・学而篇の12番目です。こんなことが書かれています。
礼の用は……を貴(たっと・とうと)しと為(な)す。先王の道もこれを美となす。小大これに由(よ)るも行われざる所あり。……を知りて……すれども礼をもってこれを節せざれば、また行わるべからず。
さっぱりわかりません。ただ……のところに、みんなが仲良くして、穏やかで、お互いのことを配慮しあう、みたいなことばが入るでしょうか。
いや、その前の「礼」って何ですか? 礼儀・マナー・節度・わきまえること、そういうことでしょうか。
そういえば、ピラミッド組織の政府与党は、トップの方の発言・行いがすべてで、みんな有り難くそれを受け入れ、受け売りでツイッターに書き込んだら、大きく取り上げられてしまい、組織の上の方のご迷惑になるからと、下の立場の人がもみ消す作業が行われているみたいですけど、こういうのをずっと私たちは我慢して見させられています。いつまでこんな暴言隠しが続くんだろう。これは「礼(儀)」「礼(節)」なんだろうか。
暴言がホンネであり、それを取り上げられたら、すぐになかったことにするなんて、政治家の発言も軽いものです。いつでも取り消しが可能だなんて、なんていう無責任社会!
いや、もう何十年も、何百年も無責任社会が続いて来て、だれも責任をかぶろうという人がいない国になっています。
関係ないことばかり書いてるけど、要は「礼」なんです。
世の中のいろいろなきまりがある。マナーがある。常識がある。人としての守っていかなければならないルール、たとえば、ウソをつかないとか、自分がしてしまったミスは謝罪するとか、自らの言葉には責任を持つとか、当たり前のことというか、本来は隠したり、なかったことにしたりしてはいけない。
それが守られない社会は、もう落ち着きのない、誰も信用できない、自分だけをしっかり守り、他人のことにはとやかく言わない。他人に対する無関心社会が自然とできてしまう気がします。政府与党は、そういう社会を推進しているんです。人々なんて、黙ってたら気づかないし、適当に暮らさせておいて、自分たちの利益をしっかり確保する。あとは知らん。そういうことが推奨されている。というか、それが現実です。
孔子さんのお弟子さんの有子(ゆうし)さんは、「礼」というのを運用していく時、暴走させてはいけない。つまり、ルールばっかりでもいけないし、例外もあるし、いろんな事情もあるし、個々の状況に合わせ、バランスを取りながら、考えていく。それが古代の王様たちも頭を悩ませたことであった、という風に言っておられます。
バランス感覚、ウソをつかない感覚、人のことをしっかり見ていける人柄、そういうのが大事! とおっしゃったんでしょうね。
★ 答えは、聖徳太子の十七条憲法にある「……を以て貴しと為す。」の原典ともなったもので、「和」でした。
『論語』においては、
45【礼の用は( 和 )を貴(たつと)しと為す】……何事にも調○が大切である。〈学而〉と書かれていました。