今ごろになってようやくつながってまいりました。ホントに私って鈍いヤツです。
私の先輩で「右翼」を自称する方がいました。私の知っている右翼とは違っていて、わりと後輩思いで、みんなのことを気遣ってくれる優しい先輩でした。先輩は気分として「右翼」を唱えたかったんでしょうか。それがカッコよかったのかな……。
私はそんな先輩の姿を学生の気取りとしてわりとスンナリ受け入れていました。ホントの「右翼」がどんなものなのか、それもわからないし、ただ「右翼」というと、人に迷惑をかける圧力団体しか知らなかったからです。先輩は決してそんな人ではありませんでした。
そりゃ「右翼」にもいろいろあるんでしょうけど、今、先輩は「右翼」なんだろうか。たぶん、違うと思うんだけど、どうなんだろうな。
その先輩の好きな曲というは、軍歌や景気のいい音楽でした。その中で珍しくて、ついつい聞き入ってしまったのが「ニセンロッピャクネン」の歌でした。ネットから借りてきたので貼り付けてみます。
金鵄(きんし)輝く日本の
榮(はえ)ある光身にうけて
いまこそ祝へこの朝(あした)
紀元は二千六百年
あゝ 一億の胸はなる
あまり内容はないみたいです。ただの景気がいいだけの音楽で、軍艦マーチと同じみたいです。1970から1980年代くらいまでまだこれらの曲は生きていたんですね。パチンコ屋さんや映画・ドラマなどや、生活の中にも取り入れられていたような気がします。
中身はないけど威勢のよさだけを売り物にして大音量で鳴らされていた。それから40年近くが経過して、世の中の表面的には軍艦マーチもニセンロッピャクネンも消え去ろうとしている。
今は? みんながバラバラの音楽を聞くようになり、まるでバベルの塔が壊された後みたいに、世界は世代・国家・民族・貧富いろんな基準でバラバラになり、違う世界の人たちのしゃべりや声は耳に入らない状態になりました。日本という国の中でも細分化は進んでいるようです。
ニュースはあるけれど、それらはすべてニュースの世界のことであり、自分のことではなくなりました。おそらく自分のところに巨大台風が来ても、自分の足元で大地震が起きても、私たちはこれは何かの間違いであり、ニュースを見たら、また他人事にようにして落ち着いていられるとかなんとか思うんだろうか。まさかね……。でも、それくらい世の中の事件は他人事として見るクセが身についてしまいました。
昔、日本の人々は一億総火の玉で一丸となって燃えていたんでしょうか。すべてを我慢して周辺諸国に侵略することこそが日本の生きる道だと考えていたのかどうか。
とりあえず、表面的には一つになってたでしょう。
1940年は大キャンペーンが展開されていたそうです。神武天皇が日本国を作ってから二千六百年が経過したので、世紀のイベントとしてオリンピックを招致し、国家としても世界戦略を大々的にやっていこうとしていた。キャンペーンソングが先ほどの中身が空っぽの歌でした。
日本各地に二千六百年を記念した石碑を立てていて、私の通勤ルートにも立っています。もう八十年くらい立っているらしい。
いつも帰りにその文字を見ることになり、「ご苦労なことを日本国内であれこれしたのだな。税金の無駄遣いの一つだ! 観光資源にもならないだろうに……」と思います。
それで、ふと四面あるうちの一面にその文字。別の一面はどうなっている?
それで、別の面に「北畠氏菩提寺」と書かれている意味を数年かけてやっと知ることができました。今日、やっとつながったのです。
北畠氏といえば、中世・室町から安土桃山までの長い間伊勢の国を支配してきた一族でした。その最後は、信長さんに家を乗っ取られ、もとからいた一族はだまし打ちにされて滅亡する。そういう人たちを憐れんで立てた石碑ではありませんでした。
その中世・北畠氏の元祖は、後醍醐天皇とその一族を支え、『神皇正統記』の親房、軍事的才能を見せた若き顕家などの、南北朝の動乱で南朝方を支えた一族でした。その活躍こそが大事だったのです。
皇紀二千六百年を記念するイベントの中で、天皇親政を行った後醍醐天皇が持ち上げられ、後醍醐天皇を支えた北畠氏にもスポットライトを当てた。すべて作為的な演出だったのです。その記念の碑として今も立ち、私は毎日そこを通っている。
日本各地で何かのつながりを大きく評価して取り上げ、これらの人々に負けないように今いるあなたたちも天皇を支え、国民それぞれが柱となって国を支えよ、そういうメッセージが行き届くように仕向けられた。
その結果は、五年後に破綻して、八十年後の今、すべては歴史の彼方に消えようとしている。先ほどのキャンペーンソングはyoutubeでは見られるようで、東条英機さんたちが勲章をぶら下げて昭和天皇を仰ぎ見る様子が記録されています。
でも、みんなそういった過去の歴史は消え去ろうとしている。すべては忘れ去られて、自分たちは平和に暮らしており、戦争は嫌いだ。自衛隊が憲法に書き込まれるのも時代の流れじゃないの、と世の中の四割の人たちは思うようになってきている。
もう少し時代が流れれば、そんなに政府が言うなら、憲法も時代に合わせればいいんじゃないの? 天皇も代替わりしたことだし、新しい憲法もいいか、とか思うだろうか。
世の中は少しずつ、明治帰りしようとしている。だからセゴドンであり、オリンピックであり、天皇退位であり、明治百五十年記念のイベントもあるんでしょう。その流れで、明治当初の憲法のような、国民が天皇のもとに一つになれるような憲法を持とうではないか! というのは自然な流れのような気がします。
でも、それは上から作られた流れです。ふつうの人々は、明治の時代にもどりたいと思っていません。みんながバラバラでもいいから、強制されず、自由に暮らしたいと思ってはいるはずです。
人々がそのように自由で、やりたいことを言ったりしたりすることを苦々しく思っている人がいるようです。バラバラではいかん。一億火の玉だと真剣に思う人たちはこれからも手を変え品を変え、あれこれと作戦を立てて人々に迫ってくると思います。
そういう時、人々はバラバラで連帯ができないとしたら、簡単に一億火の玉として丸め込まれるはずです。一部の人たちの思うツボになるわけです。
バラバラでは力が出せない。基本的に人々は連帯はしない。一部の人たちはそれをまとめて一つにしたいと考えている。何しろ日本は老人ばかりのしぼんでいく国に突き進んでいるわけですから、それを火の玉作戦で変えていきたいと思っているんでしょう。
ああ、どうしたらいいのかな。バラバラでも、時々は連帯し、強制的な権力に立ち向かえる存在でありたい。でも、それは無理で、日々私たちの連帯はとぎれかけている。ああ。