甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

楠木正成さんのふるさとへ

2018年04月12日 03時26分35秒 | わたしと大阪

 日本各地に、二千何百年前を初めとする区切りの石が立てられたのが1940年前後であったんでしょうか。いや、それだけではなくて、各地の伝説や歴史をもとに偉人たちの銅像・石像が立てられた時代があった。

 昨日見たテレビ(BSの「こころ旅」)では、鹿児島県のいちき串木野市の山の上に徐福さんの大きな石像を見ました。徐福さんは始皇帝の時代の人だから、日本の紀元よりも新しい時代の人になるんですね。二千二百年より少し前の時代の人です。

 伝説が大事というのか、人々を鼓舞するためには地元の古いお話を取り上げて、あなたたちはそうした歴史の地平の上にあるのだと教えるのは一つの教育の在り方ではあります。でもどこかへ誘導するためにこじつけであちらこちらから引っ張って来た歴史だとしたら、何だかイビツになってしまいます。情報操作を税金をかけてやるわけだからね。

 何を書きたいのかというと、大阪の千早赤阪村にある建水分神社(たけみくまりじんじゃ)のことでした。そのHPから借りてきた文書を貼り付けてみます。

御 由 緒(ごゆいしょ)
 創建は第10代崇神天皇5年(西暦前92)で、同天皇が天下饑疫(てんかきえき)にみまわれ、人民が農事を怠った時、諸国に池溝(ちこう)を穿(うが)ち農事を勧められ、この時勅して金剛葛城の山麓に水神として奉祀(ほうし)せられた。

 延長5年(927)修撰の『延喜式-神名帳-』に「建水分神社」と記載(河内國・石川郡・官幣・小社)の式内社である。また延喜元年(901)撰上の『日本三代実録』には貞観5年(863)正五位下、貞観16年(874)従四位下、元慶3年(879)従四位上が朝廷から授けられるという叙位累進の昇叙記録が見える。

 世々皇室の御崇敬極めて篤く、第96代後醍醐天皇の御代に至り、建武元年(1334)楠木正成公に勅して、元は山下にあった社殿を現地山上に遷し、本殿、拝殿、鐘楼等を再営させられ、延元2年(1337)神階正一位の極位を授け賜った。


 とあります。どうして建水分神社かというところから書かなきゃいけません。

 これまたテレビの鶴瓶さんが「家族に乾杯」という番組で、大阪の千早赤阪村を訪ねたときに、その冒頭でここが出ていました。その門前に「紀元二千百年」という石碑がたてられていて、時代の刻み方が特別だなと印象に残りました。

 ここはよその「二千六百年」とはスタートが違うところになっているようです。千早赤坂村といえば、楠木正成さんだけれど、神社と正成さんとの関係も気になって、あまりくわしく知らなかった建水分神社に注目してみました。なにしろ「二千ヒャク年」ですから、気になります。どうして「ヒャク」なんだ! 答えは御由緒にも出ています。

 私はここ何日か、二千六百年にこだわっていました。日本はそんなに長く天皇中心の国家であったのかどうか。もっとちゃんと勉強したいと思っていた。

 日本列島の二千六百年前、人々の集団は各地にあっただろうけれど、国家としての形はなく、広い世界を少しずつ知り、巨大な中国という存在があると知った、それはいつごろなんでしょう。

 たぶん、千何百年前がせいぜいであって、孔子さんの時代よりも古いのだと背伸びをする姿がみっともないと個人的には思うのです。

 考古学・地質学などを進めて、素直な目で日本列島にあった国々というのを研究した方がいいと思います。その方が真実に近いし、もう少し自分たちの新たな一面を見つけることができるような気がします。私たちはワンパターンの、硬直した歴史しか教えられていない気がする。今も二千何百にこだわる人たちがいて、相変わらず幅を利かせている。私は、できれば新たな自分たちの歴史を発見したいんですけど……。古い考え方を押しつけられるのはいやですね。もう少し落ち着いてニホンの形を学べたらと思う。



 御由緒からもう少し引用してみます。

 当社は霊峰金剛山の総鎮守で、古来より付近十八ケ村の産土神(うぶすながみ)であると共に、累代此地を本拠とした楠木氏の氏神でもある。正成公は勅を奉じ征賊の軍を起こすに当たり、当社への祈念厚く、

 「久方の天津朝廷(あまつみかど)の安かれと 祈るは國の水分の神」

と詠まれ、公の純忠のいかばかり神助を仰がれたかが推察される。

 中世には、織田信長が河内国攻略に際し、当社領を悉(ことごと)く没収し、境内も焼討ちの被害に遭い、社頭は一時衰退した。しかしながら、豊臣秀吉は再び田地を祈祷料として寄進し、深く崇敬するところとなり、次第に旧に復するを得た。

 尚、大鳥居の「正一位 水分大明神」の扁額(社号参照)は、楠木正行公(正成公嫡子)奉納の木額の表面(伝・後醍醐天皇宸筆)が摩滅した為、宝永2年(1705)、金銅製にて模造したもので、文字は時の前大納言・葉室(藤原)頼孝卿の筆によるものである。


 楠木正成さんが地域で根を下ろした人であるというのは聞いたことがありました。改めて調べてみたら、ご先祖様は関東から来たという話もあるそうです。土着の人ではなくて、鎌倉幕府のお仕事で関西に来て、そのまま居ついて土着の人となったそうです。

 そうなると、やはり地元の神様を大事にすることになり、楠木正成さんも、息子の正行(まさつら)さんも、水分神社を信仰の対象としたようです。それから信長さんの時代には、古くて反抗的なものは何で焼き尽くしてしまう信長さんによって神社は焼き討ちにも遭ったそうです。信長さんの破壊パワーの恐ろしさ、もうびっくりです。千早赤阪村でも爆発してしまうんだから。権威のある神や仏とそこに巣くう人々が気に入らなかった、ということなのかな。

 どうにかこうにか、二千六百年と楠木正成さんのつながりは書けたでしょうか。

 昨夜は、あまりに正成さんの戦績がすごくて、とても書ききれないと思ってダウンしました。そして、夜中の二時半に蚊に起こされて、こじつけの文章を書きました。まだ中国にたどりつけません。まだまだ遠い。



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