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磬(けい)という楽器があるそうです。木炭でも、サヌカイトでも、よくわからないけれど、研ぎ澄まされるといい音が出る石があるから、それらを並べてつりさげて、たたいてみたら音楽が生まれるみたいでした。
今もあるんでしょうか? 孔子さんは、音楽は好きだったそうですけど、わざわざこんな楽器を携えて衛の国に出向いたわけではないでしょう。たぶん、向こうにあったから、少し鳴らしていいですかと、ライブを開いた、というか、何かメロディが浮かんだんでしょう。
そういう感性は大事にしなくちゃいけません。音楽は一過性のもので、止めたらなくなってしまいます。音がある時だけしか楽しめないし、聞いてくれる人がいて、喜んでくれる人がいなきゃ、ただのお稽古です。
お稽古でも、誰かに楽しんでもらえたらいいですね。昔は、近所でスットコドッコイの笛の音が聞こえたりしたけど、最近はピアノも聞こえない。誰かの心からの音楽、聞かせてもらうチャンス、あればいいなあ。
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憲問編の41から取り上げます。
子、磬(けい)を衛(えい、という国です。旅の途中のようです)に撃(う)つ。
先生が衛の都で磬(けい)をたたいておられたときのことです。衛は河南省と河北省の間にある町なんだそうです。鄭州あたりなんでしょうか。
蕢(あじか)を荷(に)ないて孔氏(こうし)の門を過ぐる者有り。
もっこをかついで孔子さんが滞在しているおうちの戸口を過ぎるものがおりました。この人はただのお百姓さんではない気がします。隠者でしょうか。それとも音楽評論家でしょうか。そして、どうしてこの人の発言が今に伝わるのでしょう。お弟子さんの誰かが、孔子さんにこの人の発言を伝えたということになるんでしょうか。
打楽器の音で音楽を奏でるって、難しいです。伴奏みたいなのはできると思うんだけど、打楽器でメロディを作り出すって、どうしたらいいんでしょう。
いや、そもそも音楽って、メロディがあればいいのでしょうか。そういうのがなくても、音と音との間みたいなのが、つながっていくと、ふと人の心に入っていくということもあり得ますか。
孔子さんの音楽、聞かせてもらえたら、私はどんなに感じられたかなあ。
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曰わく、心有あるかな、磬(けい)を撃つこと。
通り過ぎた人は言います。「心がこもっているねえ、この磬のたたきかたというのは、なかなかのものだ。」
それくらいに、孔子さんの磬をたたく音に心打たれた人がいるようです。すごいじゃないですか、孔子先生。さすが、音楽もただものではない!
既(すで)にして曰わく、鄙(いやし)きかな。硜硜乎(こうこうこ)たり。
しばらくすると、またコメントします。「俗っぽいね。こちこちの音だぞ。
響きは何となくいい。でも、たたき方がなんだか気になる。何かにとらわれている感じがしたというのです。よく言われることですが、大衆受けする音楽は、批評家には受けない、ということもあるみたいだから、孔子さんの音楽は、大衆受けするもので、パッと聞きにはいいけど、よく耳を澄ますと、その奏者の魂胆が見える、受けたいという気持ちが見え隠れする、そういうことなんでしょうか。
そういう時、ファンとしては、批評家が何といおうと、ボクはこれが好きなんだから、だれが何て言ったって、ボクはスキ! と言い切ってしまいますけど、私も少しそんな気持ちです。何とでもお言いなさい、という感じです。
己(おのれ)を知ること莫(な)くんば、斯(こ)れ已(や)まんのみ。
自分のことをわかってもらえなければ、そのまま止めてしまうだけのことさ。
何だか当てつけになってきましたよ。孔子さんはいい年をして、中国の各地を回り、各地の王様に「私に政治を任せてください。私のアイデアを採用してください」と売り込みの旅に出ていました。そういうのを十四年つ続けたといいますから、なかなか苦しいものではありました。お弟子さんたちを引き連れ、おうちも用意してもらって、王様の相手をします。コンサルタント業務です。いろんな話題を投げかけられ、対応策を考えたりしたでしょうか。
そうした孔子さんの日々の生活への当てこすりみたいなコメントです。音楽は確かにいい。でも、あなたのことを誰も理解してくれないのなら、そういう放浪生活も諦めたらどうなの、なんて、孔子さんのチャレンジを全否定するコメントです。
こういうのをお弟子さんか誰かがしっかり聞いていたのかもしれません。
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深ければ則(すなわ)ち厲(れい)し、浅ければ則(すなわ)ち掲(けい)すと。
『詩経』にあるように、「深い川なら着物を脱ぐし、浅い川ならすそをからげて渡れ」ということなんだよ。
孔子さんの好きな「詩」からの引用です。これでグサリと相手をダウンさせるつもりですね。
世の中に合わせろ。無理をするな。自然に生きろ。お前の音楽も人生も、自然ではなくて、作為がある。無理がある。不自然である。もっと、サラリと世の中を渡る方法があるだろ。そういう生き方ができたら、おまえの音楽も変わるよ。というアドバイスをくれたんですね。
やはり、隠者のコメントです。私は、こういう考え方も好きなんです。でも、それでもあえて立ち向かう孔子さん的なスタイルも、学びたいと思うのです。だから、使い分けられたらいいんです。
でも、人間って、使い分けができない人が大半だし、大抵は不器用に生きていくもんなんです。だから、孔子さんは、孔子さん的な生き方しかできない。人から何と言われようとも、生き方は変えられない。
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子の曰わく、果(か)なるかな。之(これ)を難(かた)しとする末(な)し。……今回は、少し岩波文庫版から読み方がはずれてしまいました。
先生は言われた。「思い切りがいいね。だが難しいことじゃないよ。」
先生は、通りすがりの人のコメントを拒否しませんでした。お弟子さんが、先生、こんなことを言ってる人がいましたよと、告げると、「そうなんだよ。それくらいバッサリと見切りをつけられたら、それはいいことなんだよ。私だって、そういう判断を下す時もある。その覚悟はできている。でも、最善の努力はする。それが私というものなんだよ。」と。
そういう風な意味合いなんだと思います。さすが、先生は諦めないんです。隠者の人たちのスタイルもいい方法だとも思う。でも、困っている人がいるとしたら、とりあえず最善を尽くす、今の社会にもありうることだと思います。