孔子先生が言います。
「その鬼(き 霊魂)にあらずしてこれを祭るは諂(へつら)いなり。」
わが家の精霊(しょうりょう)でもないのに祭るのは、へつらいである。本来、祭るべきものではないのだから、と。
家では、その家の代々の祖先の霊をおまつりするのが当たり前だと考えておられました。まさにその通り、よそを見たら、すごい神様や仏様、人智を越えるすごい存在があるというのはみんな何となく感じている。
でも、個人としてお祈りするのであれば、よそのすごい存在におすがりするよりも、まず自分が今あるのは誰のおかげか。もちろん、先祖があっての自分なのだから、とりあえず自分の先祖をおまつりする、それが自然じゃないかという教えです。
確かに、その通りです。それをよそから借りてきた神様や仏様をおまつりするのは、ニセモノであり、本来の道を失っている。何にお祈りしているのか、本末転倒になっているというのです。
それで、次のことばです。
36【( )を見てせざるは勇無きなり】……「○」とは、人としてしなければならない、正しい道のこと。それがわかっていながら、行わないのは真の勇気がないからであるという戒め。〈為政〉
→その反対は、「君子危うきに近寄らず」という日本の諺です。
ここでやらなきゃまともじゃない! だから、今すぐ実行に移しなさいという意味で使われています。
でも、改めて全体を見てみると、前のことばが気になります。
空欄には、勇気・大義・正義・正しい道みたいな意味のことばが入るような気がしていました。
でも、この前のことばを見てみたら、そういう大層なことばではないような気がしてきました。
カエルの子はカエルです。本人が今に至るには、そうなるべくしてそうなったのである。ご先祖がいて、活動して来て、その積み重ねの中で自分が生まれ、自分はまるで自分自身で自分の道を切り開いてきたような気持ちになって、ついつい思いあがってしまうものだが、それは間違いである。
だから、自分からかけ離れたものを、家の中に持ち込むのはお門違いであり、間違った選択である。
自分があるべき道は、すでにその先祖の歴史の中にある。ということは、その歴史と伝統の延長線上に自分たちの生活が作られていくものである。
踏み外してはいけない。自分のやるべきことは、自分の中にすでにあるものなのだ。
それがわかっているのに、やらないというのは、根性なし・意気地なし・邪道である。
間違ったことをしないためにも、自らの中にある歴史・伝統・家のルールというのを見直しなさい。
という教えでしょうか。
私たちには誤解がありますね。つい、ここでやらなきゃダメだぜ、という時にこのことばを使ってました。
これからは、さあ、私は、私のやるべきことをしていきます! という時に、このことばを使いたいと思います。