1975年の秋の短歌を見つけました。まさか、短歌を作ってたとは! 古今集の短歌などには少しだけ興味があったけれど、勢い込んで岩波文庫を買ったら、すぐに投げ出したんですよ。それくらいに、取り付く島はありませんでした。
そして、全く面白いとも何とも思いませんでした。目から入った刺激だから、感性に響かなかったのかもしれない。もっと徹底的に百人一首をやったなら、音に対する感性も磨かれたかもしれないけど、つまらないなあ、何が言いたいのかわからないよ、と思ってたはずです。
でも、秋には変な短歌を作っていました。
この月は昨夜の月と思えどもなぜか背を越ゆ北海の風
業平さんの短歌で、この月は同じなのに、過去に見た時と今とでは、まるで違うなんていう歌がありました。そのマネなんでしょうか。でも、突然に北海の風だなんて、苦しいにしても組み合わせが変過ぎて、よくわからなくなります。月と風の関係が伝わったら、少しはいいんだけど、今となっては不明です。
枯れ葉舞う涙消え散るこの風を冬吹く風と思いつるかな
消え散る涙とは、こなれていない表現です。若者言葉みたいです。そして、テーマとしては、冷たくて目も凍えそうで涙で目をうるませるんですけど、それさえ飛び散る風だ、もうすぐ冬がやって来る、そんなことでした。
何だか、風景の中に感情移入できるものがないですね。残念だなあ。
秋の夜に犬の遠吠えなりひびき静かに走る暗い車よ
クルマを暗いと感じた、それは良しとしましょう。でも、ここでも、遠吠えとクルマの関係が不明です。ああ……。
夕焼けの赤く焼け散り消えゆきぬ されども人はふり返りもせぬ
もう、いやになってしまうくらい独善的です。自分だけが夕焼けの美しさを見つけたぞ、人はまるで見てないぞと得意になっている。そんなんじゃ、夕焼けだって相手にしてくれません。もっと素直な気持ちで向き合わなきゃなあ。
でも、若い時って、それくらい独りよがりなものである、というのは確かで、そこからどれだけ人の気持ちをとらえるかですけど、残念ながら、私でさえつまらないと思ってしまう。それにしても、無駄な動詞が多すぎです。「焼け」「散り」「消え」「ゆき」「ふり返り」「せ(する)」計6個、これは多すぎましたね。
川岸にのんびりだらりと日を送り家に帰ってもごろ寝するなり
旅先と帰宅後、2つの時間があって、どちらもダラリとしている。ちっとも人に共感してもらえるものがないですね。でも、私らしい、だらしない雰囲気は出ています。
せっかく取り出してみたけど、人様にお見せするものではないようです。反省してもう止めることにしました。失礼しました。