高校に入って、しばらくしたら生徒会に出入りするようになりました。たまたま、いろんな条件が重なって、そうなりました。
生徒会の書記さんは、ESSの一つの上の先輩で、自説を述べる時に、たくさんの人の前でも、小集団の時でも、何だか普通とは違う話し方をしてくれる先輩で、お話してくださる時の語尾はとても魅力的でした。
何かの話とか、いろんな意見を引用する時、「……と」(ここでワンクッション置いて、それから「思います」であったり、「意見があります」)などと話してくださる。……自分の気持ちを整理しながら、素直な気持ちで話をしようとされてたんでしょう。
それを聞いてる私は、その一瞬の間が不思議で、聞き入ってしまう。その続きもあるんだけど、思考回路はストップして、「おもしろい間だなぁ」と感心して、お話の中身はサッパリ耳に入らない。そんな不思議な先輩でした。
まさか、英語の上手な先輩だから、英語のスピーチ方法としてそんなのがあるの? とまでは思わなかったし、それなりに英語は聞いてきましたけど、人の前で不思議な間で話された英語も聞いたことはありませんでした。たぶん、先輩独自の言い回しだったんでしょう。
話し方も魅力的だったけれど、いろんな意見を受け入れ、割とクールに話もしてくれて、みんなは先輩のコメントに一歩譲ってしまうところが自然にできて、先輩が何かの問題に乗り出すと、物事は進展していくような、そうした力のある人でもありました。
注目はしていたけれど、気づいた時には先輩は語学留学で英米のどこかに行かれたんだと思います。一年したら、私の学年に入ってくれたんですけど、光ってたのはたぶんそのままだったでしょうね。でも、私との接点はなくなっていました。クラスも遠いし、全く関係はなくなりました。
先輩は、めがね女子で、何かお話をされる時、チラッとめがねをゆするクセみたいなのもあって、そういうのもステキだなとは思いましたが、あまりにも偉大過ぎて、私なんて、全く相手にもされないような感じでした。別にお高くとまっているのではなくて、威厳があったから、つまらない話をしかけるということは全くありませんでした。
私が、めがね女子というのに初めて接した体験だったのだと思います。それで、そんな彼女がいればいいのになとは思いましたけど、高校時代は全く話にならない私ではあったので、親しくお話してもらえる人なんて、見つけられませんでした。
「二十歳の原点」を読んでいます。1971年に出た本でした。ベストセラーだったそうですが、全く私は知りませんでした。
新聞広告などで見かけたかもしれません。80年代に単行本で読んだことがありました。借りものだったのか、うちの家からはすぐに消えてしまい、昨年の10月、突然に古本市からうちの家にやって来た文庫本です。
最初のところに、こんな文章がありました。
私の顔の造作はかわいらしくできているらしい。目はまあパッチリとしているし、鼻すじは通っていて、口もとはおちょぼ口で愛きょうがある。鏡をみては、いろいろな表情をして遊んだりする。
けれども、この私の顔のつくりは「私」にあっているだろうが、あまりに整いすぎている。完全そうにみえる。友達のメガネをかけたとき、「ひょっこりひょうたん島の博士みたいだ」とか、「おっちょこちょいのいたずら娘だ」とかいわれた。メガネをかけた方が、より「私」らしいと思う。二十歳の記念にメガネをかけよう。
とありました。著者の高野悦子さんが、ずっと本来のおどけた、自分らしい、人懐こい、みんなと一緒にいたがる、さびしがり屋の女の人だった、というのをそのままに出せていたら、どうなってたんだろう。
今さら私が嘆いてもどうにもならないけど、どうか、もっと自分を出せる人であってくれ、と思わずにはいられません。
今夜もちよこっと読んで、コテッと寝ることにします。