知るということは、どういうことなのか。「知る」ということから最も遠いアホウの私が書くのですから、まるでわかっちゃいませんが、せめて孔子さんのお言葉を時々は思い出して、知るって何でしょうねと、考えてみたいのです。まあ、ムダなことですけど、やらないよりはやる方がいいのだから、せいぜいやることにします。
今回の〈雍也 ようや〉編は、お弟子さんへのアドバイス・コメントが多い気がします。もう少しでも、孔子さんの言葉がかみしめられたら、少しは私もましになると思うのだけれど、サッパリのダメダメ人間です。今も寒いからフトンの中で打ち込んでますよ。奥さんは起き始めましたよ。ああ、私って……
27【敬( )】……敬うように見せかけ、実際は軽蔑して寄せ付けないこと。
死者や祖先の霊魂[鬼神(きしん)]は敬うけれども、あまり近寄らないというのが原義。〈雍也〉 空欄に一字を入れてみると?
このお言葉の後にこういうのもあります。
「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しみ、知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し」
というもので、智の人は流動的だから水を楽しみ、仁の人は安らかにゆったりしているから山を楽しむ。智の人は動き、仁の人は静かである。智の人は楽しみ、仁の人は長生きする、という意味だそうです。
やはり、知恵があると、あれこれそのアイデアを形にしてみたいと思うものなんでしょう。だから、言葉が口から出てしまうし、出てしまうと、それをやらねば気が済まないし、とことん知恵やアイデアに突き進むことでしょう。どちらかというと、目に見えて動くものを好み、そこから次々と刺激を受け、あれこれと考えをめぐらせてしまう。そういう生き方をしてしまうのです。
思いやりがある人は、そこにあるものを第一義とする。そこにあり、自分たちの環境を構成しているものを愛していく。できれば、そのままそれらが永遠につづくことを考える。余裕があれば、自分たちの環境にあるものを見て、観察して、そこに立ってあれこれ考えてみたいから、そこに行ってみるのです。基本はあるがままを優先させてあげるから、どうすることがその人の役に立ち、その人が満足するのかをあれこれ考えてみるので、どちらかというと、物静かでガミガミ言わないし、いつもホーとか、ヘーとか、ハーとか言うだけでしょう。
基本はノーストレスだから、というか、好きなようにやりなさい、それがあなたの望んでいることならばというスタンスなので、あれもよい、これもよいでやっているので、はたから見るとアホウみたいに見えるでしょう(私は純粋なアホウですけど、できれば仁の人になりたいとは思います)。だから、意外と長生きするものだ、と孔子先生は言います。
さて、言葉にもどります。「鬼神(きしん)を敬して……ざく。知というべし」と。
神様、仏様、霊的なもの、人の魂みたいなもの、そういうスピリチャルなものは、恐れ多いし、恐ろしいものではある。それらにすがりたくなることもあるのかもしれない。けれども、あまりにそうしたものにとらわれすぎるのはどうなのか。現実がおろそかになって、現実と非現実が逆転したら、どうなるのか?(今の若い人はバーチャルやSNS第一主義の人がたくさんいて、まるでそれがすべてという人までいます)
それは悲しいことではあります。ですから、孔子先生は言われます。「敬して(敬いつつも)自分から離しなさい。そばにおいてはいけない」と。それが知恵のある生き方なのです。
つづけて、「仁者は難きを先にして獲ることを後にす。仁というべし」
思いやりのある人は、せねばならぬことを行い、嫌なことを自ら進んで実行し、報酬や利益のことを後回しする。それが仁というものだ。
ああ、言うは易(やす)し、行うは難(かた)し、です。孔子先生ならできるんでしょうけど、凡人の私には大変なことです。
さあ、ある程度見切りをつけて、今日、日曜日、それなりに過ごします。たいしたことはできません。そこにあるのを右左させるだけで、何も変わらないでしょう。でも、それでいいです。時間は過ぎていくし、空は移り変わるし、明日はまた明日、今日は今日、何か一つでもできたらいいかな……。
★ 答え 27・遠(けいえん)するということだそうです。