今、すべてを焼き尽くす火という力があれば、いろいろな問題で困窮している人間たちはそれに頼ってしまいたいだろう。けれども、そんな万能のものはなくて、人間社会の諸問題は淡々と続いていく。善後策は施されるだろうけれど、根本的な解決には至らず、現代に生きる私たちは、もうお手上げ状態に陥っている。
火は、たまたま人間が見つけて、長い歳月で手なずけて、仲良くしてきた存在である。火が人間の文明を作ったという面もあるような気がする。
けれど、近ごろの人間は、火を軽視し過ぎている。もう一度自分たちの原点に戻り、火に親しみ、火とどのような生活をしていくべきか、また、火が自分たちにどれくらいのものを与えてくれたのか、また、火そのものをじっと見るべきでもあると思う。
火は、すべてとは言わないけれど、コントロール不能になったら、大事なものも、そうでないものも、私たちの前から消し去るか、ムチャクチャにする恐ろしい力を持っている。
だからこそ、私たちは、火を神様として、敬虔な気持ちで接してきたはずだ。
火は、神様が姿を変えた形であった。
熊野の一つの中心、新宮の町を見下ろす神倉山の中腹に、ゴトビキ岩という大きな石があって、すべてのものに神様は宿るけれども、この岩にもすごい神様がおられて、人間たちは、ここに年に一度、真っ白の服装で詰めかけ、神様から火をいただいて、有り難い神様に接することができたと思ったら、一目散に真っ暗闇を下っていくシンプルなお祭りがあった。
私も、一度だけ参加したことがある。もう何十年も前の話。
その時は、何も考えられなくて、ただ無事に神様のところから帰ることを祈り、どうにかこうにか降りてきて、それからはなんということのない生活に逆戻りして、お祭りとは無縁の日々があって、今に至っている。
そして、テレビなどで映し出されれば、かつて自分がそこにいたことを思い出すことができるようになった。画面の中に自分はいないけれど、自分もその神の子になれた瞬間があったと誇らしい気分に戻れるのである。
たったの一回しか参加していないのに、あの松明が揺れ動く様子を見ていると、ただの過去のことなのに、昨日のことのように蘇るのである。
★ 「ニッポン印象派 火まつり」(22日)を見て、それらしいことを書こうとしたけど、少し無理がありますね。無理しちゃダメだよ。もっとフツーに書かなきゃ!
ハイ、そうします。