三連休がありました。今日はその三日目です。私は、どこにも行かず、何もしてこなかった庭の片付けしようかなという気分ですけど、昨日の夜から今朝にかけてのハナ水状態を考えると、それは止めた方がいいのかもしれません。
とうとう花粉症のシーズンに入ったみたいです。38年目のシーズンになるのかな。そんなキャリアなんて、全く誇れるわけはないし、むしろ自分が何もしないで泣き寝入りしてきた負の歴史だし、恥ずかしいことなわけですけど、かなり長く花粉症をやっています。もう、毎年恒例の行事みたいにしてやってます。
近ごろは、昔みたいなひどい状態にはならず、ほどほどのところでシーズンをやり過ごせるようになってきました。対応策は「小青竜湯」だけなんですけど、よくやっています。誰が? 私が? いえ、小青竜湯さまです。昔はバカにしてたのに、今はこれ頼みです。すがるモノって、日々変化するものなのかな。
今週末からは3月です。いや、その前に、三連休でした。この間に、私の知り合いだった若い人たちが、結婚とか、入籍とかするみたいで、めでたいことでした。そうか、昔あけすけなお話を聞かせてもらって、「今の若い人はそんなことしてるんだ!」と感心したことがあったけれど、そういう人たちも時間が経てば、結婚したり、子どもができたり、それぞれの道を歩いていくみたい。当たり前か……。
今、一番近くにいる人は、あけすけなことは言わなくて、淡々と彼女と同棲し、淡々と相手のおうちを訪問して了承され、式は挙げず、披露宴もせず、入籍だけをするということでした。実質重視の人みたいです。お披露目とか、そんなことなんかしなくていいと思う! 私だって、そんなことしたくなかった! でもまあ、昔の仲間と会うチャンスとしてお披露目したのかもしれないし……。とにかく、実質的に結ばれるのなら、それはそれでいいなあ。
当然のことながら、時節が来れば、結ばれる人はいて、そうでない人はポツンと存在している。自らそれを選ぶわけだから、本人としては納得しているかもしれないけど、はたから見たら、そばに寄り添う人がいてもいいのになと思う。でも、余計なお世話だから、なるべく考えないようにします。人それぞれなんだから。
人が結ばれ、別れていくのは、私にはどうしようもなくて、とりあえず、自分のまわりの人たちだけでも、何とかしあわせに、本人たちの望む方向で行かせてあげたい。願いはそれだけです。
そうした出会いと別れ。私は「別れ」の方に注目せざるを得ない状況・年齢には達しています。もういいオッチャンですからね。人の「出会い」を聞いてるのは楽しいけれど、自分が体験するものではないし、「そういうことが若い時はあるんだな」と、諦観して見ているだけですね。
この土曜日、私は朝から近所の図書館の除籍図書というのをもらいに行き、10冊の本をもらってきました。
一つだけ読み終えたのが、城山三郎さんの「そうか、もう君はいないのか」(2008)でした。うすい本だから、簡単に読めたけれど、なるべく「別れ」の本は寄せ付けないようにはしてるんだけど、タイトルと、ずっと奥さんのことを思い続けてた城山さんのことをどこかで知って、いつかまあ、読んでみる? 程度の気持ちはありました。
もうひとつ、江藤淳さんの「妻と私」という本ももらってきて、うちの奥さんから呆れられたんですけど、彼女なら絶対に手を出さない本ではあるんだけど、カタブツの評論家の「お別れ本」かなと思って、もらってきました。
読み終えて、また今さらながら気づきました。
城山三郎さんは1927年生まれ、うちの父より3つ年上の昭和ヒトケタでした。あと書きで城山さんとの「別れ」を書いている次女の井上紀子さんも私と同い年くらいなんでしょう。
そういう年代は、少しずつ親との「別れ」を経験し、そんなに遠くない自分のこの世との「別れ」も、何となく思わなきゃいけない、そういう時期なのだと思います。
同級生のHくんは「まだまだ」とか記者会見してたけど、彼は偉いなあ。彼こそ私たちの希望なのかもしれないと思えるようになりました。東京の方で、同年代で頑張っている人って、彼くらいしか思い当たりません。
いくら考えても、思い通りにならないのが人の「生」の「出会い」と「別れ」ではあるので、なるようにしかならないさ。でも、ここぞと思う時には、自分なりの努力をして、納得できるようにやっていくしかないさ。と思うことにします!
城山さんの「別れ」本は、奥さんが亡くなってから、七年の歳月をかけて少しずつ出来上がったものなのだと娘さんから聞かされました(あとがきにそうありました)。うすい本なんだけど、最後の最後に城山さんが書かなくてはいけないと思って書いた奥さんとの「出会い」から「別れ」までが、わりと軽やかに書かれていました。
振り返ると、明るくけなげで、遅刻魔の奥様が見えてきた。今はもう近くにはいないのだけれど、一緒だった日々をずっと携えて生きている自分がいて、今も彼女によって生かされていると知る。そして、それを思う度に、今は「別れ」てるけど、いつかはまたあの世で「出会う」のがわかってる、みたいな雰囲気もありました。
たぶん、そうなんでしょう。もう城山さんが亡くなってからでも十三年が経過しているし、奥様が亡くなられてから二十年が過ぎています。二人とも、この世からおられなくなって、生き残ってい者たちが、何となく亡くなった人たちのこと思い出している、それくらいに時間の流れというは、早いので、どんどんすべてを流していくのかな。
それに反抗して、城山三郎さんの本をもらってきて、家にこもって読んだんですね。そうか、私は、しばらく遠ざかってた母に電話しました。父のことも思い出します。少しずつ、淡々と時間の流れの中で、やれることだけはやっていきます!