やっと「戦場のピアニスト」(2002)を見ることができました。公開されてからだいぶ時間が経過しました。何度か見るチャンスがありましたが、なかなか見られなかった。「シンドラーのリスト」の時もそうでした。かなり時間が経過してから、ひっそりと見ました。興味はあるけど、すぐに飛びつけなかった。やはり、受け入れるときにはそれなりに心の準備が必要な気がします。
それで、改めてポーランドのことを考えました。自分とのつながりにおいて。
十数年前、バーシアさんが好きでした(ということは、戦場のピアニストが公開されたころですか。もっと前かなあ?)。Basiaさんは、1990年に「london warsaw new york」というアルバムを出して、cruising for bruising という曲をヒットさせました。それ以前にもアルバムを出していたようですが、知ったのはこの時からで、最初はミニアルバムの方を買いました。あとで改めてCDも買いました。シブチンの私にしては、えらい入れ込みようです。気に入ったんですね。
やがて、彼女がマット・ビアンコというバンドにもいたみたいだから、そのベスト盤もブックオフで五百円くらいで買いました。それで、何となくどこ系の人なのかわからない顔の人だなと思っていたのが、タイトルにもあるように、ポーランドの人で、東欧系の人なのだと、少しずつわかっていきました。やはり興味がないと、自分の中の関心はひろがりませんね。まず、知りたいと思わなくっちゃ!
私が気に入った音楽の人は、昔はただのアメリカやイギリスの洋楽、ポップス、ロックでした。アメリカにしても、イタリア系・アイルランド系・アングロサクソン系・ユダヤ系・アフリカ系・東洋系・南米系・メキシコ系など、いろんな人がいてこそアメリカなんだから、個々のアーチストそれぞれがルーツを持ちながら、アメリカという舞台で音楽をたまたまやっているわけで、どれをアメリカというんじゃなくて、みんないっしょくたにまとまっているのがアメリカ世界で、個々がアメリカで、全部がアメリカ音楽です。イギリスは少し違うでしょうけど、イギリスだっていろんな音楽のごちゃまぜをイギリステイストにしているだけです。それで、私が、たまたま気に入った欧米で活躍しているBasiaさんはポーランドの人だった。
ポーランドは昔から、東西のゆさぶりに揺れた国なので、いろんなルーツを持つ人々が住んでいました。もとからのポーランド人、ドイツ系、ユダヤ系、私が知らないだけで、もっともっといろいろなルーツを持つ人々が住んでおられるでしょう。ご近所のバルト三国からも来ている人はいるでしょう。
近代国家になっていく時に、分割され、民族主義を起こし、独立し、また戦争で東から、西から攻めてこられ、揺さぶられ続けたこの国は、つい20数年前までは東欧・共産圏の国でした。
そこへ至る前は、ドイツに占領されていた時代があった。「ブリキの太鼓」はドイツに占領されていた時代の港町のグダニスクが舞台でしたし、アンジェイ・ワイダ監督の「地下水道」はナチスドイツに抵抗するレジスタンスのお話で、ソ連軍がすぐそばまで来たので、希望を抱きつつ地下活動を続けているのに、ソ連軍はしばらく進軍を中止して、レジスタンスが滅んでからワルシャワに入ろうとする。そういう映画でした。
レジスタンスを助けると、やがてこの人たちは社会主義にも抵抗する勢力になると見抜いていた(ソ連もアホじゃなかったのです!)。自由を求めて抵抗しているわけだから、ソ連軍は自由など持ち合わせておらず、そんな不平分子は社会主義には必要ないとわかっていたのです。恐ろしいくらい見通す力があった。
というのか、何度も経験してきた結果、レジスタンスは役に立たないと学習していたのですね。たいしたもんだ。そういう歯がゆい思いを映画にしていました。ワイダさんの次の作品「灰とダイアモンド」では、殺し屋の仕事をした主人公と、殺された政治指導者は本来は手を取り合って生きていくべきなのに、お互いを殺し合って、国の行く末を見えなくさせていくという内容で、マチェックは、自らの虚しさを感じつつ死んでいくのでした。
そして、それらの映画の時代をユダヤ系の1人のピアニストを主人公にして映画「戦場のピアニスト」は作られた。扱う時間もそれなりに長くて、1939~1945年までの歳月を2時間半に凝縮しています。実在のピアニストのウワディスワフ・シュピルマンという人の手記が元になっています。
でも、どうして2002年にわざわざ作ったのだろう? 監督のロマン・ポランスキーさんの原点回帰のための映画なのか? と思ったら、そうじゃなかった。
1946年に書かれた手記、これがずっと50年間封印され続け、1998年にやっと日の目を見たということでした。だから、ポランスキーさんは自らの人生とも重ね合わせつつ、長い眠りから目覚めた原作を、どうしても映画にしたかったのでしょう。原点回帰にはちがいないけれど、それもあまりうれしくない、つらい原点回帰です。けれども、やはり自分たちがいまここにあるのは、こうした歴史の上ではあるし、それをもう一度丁寧に描いておきたいと思った。やはり老監督としての遺志でしようか。
ワルシャワ・アット・ワォーというページを見つけて、ユダヤ人収容地区であるゲットーとか、そこにいた人々を記録した写真を見つけました。子どもたちの写真も見つけました。コピーしようかとも思いましたが、やめました。それらは見させていただくだけで十分だと思いました。
特にゲットーの写真は、映画の筋で行くと、みんな殺されていった人たちだから、それをコピーするのはいけないことだと思い、やめました。それでせっかくだからワルシャワの街がズタズタにされている写真を2枚だけコピーしました。これらで映画の雰囲気はつたわるかなと思ったのです。
コピーしたものが本物で、映画はニセモノですけど、映画の中で再現されていた廃墟は、実にこの写真に似ているなあと感心し、ある意味よくできた映画なのだと改めて思いました。
映画は、ナチスドイツのポーランド侵攻、それによるユダヤ人隔離政策、ムチャクチャな殺人・虐殺、家族との別れ、たまたま救われてワルシャワ市内での潜伏生活、ものすごい孤独と忍耐と希望のない日々、ドイツ軍将校との交流、そして、ソ連軍による一時的な解放と進んでいき、しばしの安息という内容でした。
丁寧にたくさんの人々の死が描かれていきます。ものすごい無力感を感じつつ、ゲットーでの反乱は悲愴感を感じ、潜伏期間中は圧迫感を感じ、レジスタンスの爆発では少しだけ希望を抱きと、主人公と同じような心境になりながら見ていました。そして、解放されても、もう数年前の自分たちの環境は失われてしまっていて、それでも同じように、ふたたびピアノに向かおうというところで終わるものでした。
ですから、私は、感想は何もなくて、ただナチスの虐殺を見聞きし、許されないことだと思い、二度とこんなことはしてはいけない、というありきたりの結論にたどりつきます。
ところが、70年後の今も、少し形は違うけど、理不尽な殺戮行為は続いているようです。いや、自由の使者の連合軍も、それからあとの朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争・イラク戦争・アフガニスタン攻撃でどれくらい平和的な攻撃ができたのか、ものすごく不安です。
まさかナチスドイツのようなことはしなかったでしょうが、すべて公明正大な行為だったのかどうか。
やはり、まとまりはつきませんでした。「戦場のピアニスト」も、主人公が助かってよかったけれど、そこに至るまでにどれくらいの人々が犠牲になったのか、それを思うと、もう映画ではなくて、悲しくて涙も出ません。とにかく恐ろしい事実をつきつけられて、ただ黙って思いをいたすだけです。
こういうことがあったと知ることができたのを喜ぶべきなんでしょうね。そして、映画にならなかったたくさんの人々の物語があったと思うべきなのでしょう。貨物列車に載せられたシュピルマンさんの家族の物語はもう描かれていません。描くのはあまりに辛い事実があるからでしょうし、圧倒的に希望のない内容だから、何か1つ希望を描かなくてはならなかった。シュピルマンの生還も観客としては希望です。彼がドイツ軍のコートを着て町中に出て行ったときはもう目の前がまっくらでした。そうなるとわかっていた。でも、とにかく彼は助かります。少しだけホッとした。
ドイツ軍の将校さんとの交流も1つの希望でしょう。町中でユダヤ人を発見しても、彼は射殺しなかった。そして、パンを与え、何度かシュピルマンを訪ね、状況を話してやり、希望と食料を与えた。これも事実だったのだと我々は知らなければならなかった。ナチスドイツに所属する人々も殺人兵器ではなくて、やはり人間だった。そして、人間には音楽を愛する心があった。そういう映画だったんですね。
それで、改めてポーランドのことを考えました。自分とのつながりにおいて。
十数年前、バーシアさんが好きでした(ということは、戦場のピアニストが公開されたころですか。もっと前かなあ?)。Basiaさんは、1990年に「london warsaw new york」というアルバムを出して、cruising for bruising という曲をヒットさせました。それ以前にもアルバムを出していたようですが、知ったのはこの時からで、最初はミニアルバムの方を買いました。あとで改めてCDも買いました。シブチンの私にしては、えらい入れ込みようです。気に入ったんですね。
やがて、彼女がマット・ビアンコというバンドにもいたみたいだから、そのベスト盤もブックオフで五百円くらいで買いました。それで、何となくどこ系の人なのかわからない顔の人だなと思っていたのが、タイトルにもあるように、ポーランドの人で、東欧系の人なのだと、少しずつわかっていきました。やはり興味がないと、自分の中の関心はひろがりませんね。まず、知りたいと思わなくっちゃ!
私が気に入った音楽の人は、昔はただのアメリカやイギリスの洋楽、ポップス、ロックでした。アメリカにしても、イタリア系・アイルランド系・アングロサクソン系・ユダヤ系・アフリカ系・東洋系・南米系・メキシコ系など、いろんな人がいてこそアメリカなんだから、個々のアーチストそれぞれがルーツを持ちながら、アメリカという舞台で音楽をたまたまやっているわけで、どれをアメリカというんじゃなくて、みんないっしょくたにまとまっているのがアメリカ世界で、個々がアメリカで、全部がアメリカ音楽です。イギリスは少し違うでしょうけど、イギリスだっていろんな音楽のごちゃまぜをイギリステイストにしているだけです。それで、私が、たまたま気に入った欧米で活躍しているBasiaさんはポーランドの人だった。
ポーランドは昔から、東西のゆさぶりに揺れた国なので、いろんなルーツを持つ人々が住んでいました。もとからのポーランド人、ドイツ系、ユダヤ系、私が知らないだけで、もっともっといろいろなルーツを持つ人々が住んでおられるでしょう。ご近所のバルト三国からも来ている人はいるでしょう。
近代国家になっていく時に、分割され、民族主義を起こし、独立し、また戦争で東から、西から攻めてこられ、揺さぶられ続けたこの国は、つい20数年前までは東欧・共産圏の国でした。
そこへ至る前は、ドイツに占領されていた時代があった。「ブリキの太鼓」はドイツに占領されていた時代の港町のグダニスクが舞台でしたし、アンジェイ・ワイダ監督の「地下水道」はナチスドイツに抵抗するレジスタンスのお話で、ソ連軍がすぐそばまで来たので、希望を抱きつつ地下活動を続けているのに、ソ連軍はしばらく進軍を中止して、レジスタンスが滅んでからワルシャワに入ろうとする。そういう映画でした。
レジスタンスを助けると、やがてこの人たちは社会主義にも抵抗する勢力になると見抜いていた(ソ連もアホじゃなかったのです!)。自由を求めて抵抗しているわけだから、ソ連軍は自由など持ち合わせておらず、そんな不平分子は社会主義には必要ないとわかっていたのです。恐ろしいくらい見通す力があった。
というのか、何度も経験してきた結果、レジスタンスは役に立たないと学習していたのですね。たいしたもんだ。そういう歯がゆい思いを映画にしていました。ワイダさんの次の作品「灰とダイアモンド」では、殺し屋の仕事をした主人公と、殺された政治指導者は本来は手を取り合って生きていくべきなのに、お互いを殺し合って、国の行く末を見えなくさせていくという内容で、マチェックは、自らの虚しさを感じつつ死んでいくのでした。
そして、それらの映画の時代をユダヤ系の1人のピアニストを主人公にして映画「戦場のピアニスト」は作られた。扱う時間もそれなりに長くて、1939~1945年までの歳月を2時間半に凝縮しています。実在のピアニストのウワディスワフ・シュピルマンという人の手記が元になっています。
でも、どうして2002年にわざわざ作ったのだろう? 監督のロマン・ポランスキーさんの原点回帰のための映画なのか? と思ったら、そうじゃなかった。
1946年に書かれた手記、これがずっと50年間封印され続け、1998年にやっと日の目を見たということでした。だから、ポランスキーさんは自らの人生とも重ね合わせつつ、長い眠りから目覚めた原作を、どうしても映画にしたかったのでしょう。原点回帰にはちがいないけれど、それもあまりうれしくない、つらい原点回帰です。けれども、やはり自分たちがいまここにあるのは、こうした歴史の上ではあるし、それをもう一度丁寧に描いておきたいと思った。やはり老監督としての遺志でしようか。
ワルシャワ・アット・ワォーというページを見つけて、ユダヤ人収容地区であるゲットーとか、そこにいた人々を記録した写真を見つけました。子どもたちの写真も見つけました。コピーしようかとも思いましたが、やめました。それらは見させていただくだけで十分だと思いました。
特にゲットーの写真は、映画の筋で行くと、みんな殺されていった人たちだから、それをコピーするのはいけないことだと思い、やめました。それでせっかくだからワルシャワの街がズタズタにされている写真を2枚だけコピーしました。これらで映画の雰囲気はつたわるかなと思ったのです。
コピーしたものが本物で、映画はニセモノですけど、映画の中で再現されていた廃墟は、実にこの写真に似ているなあと感心し、ある意味よくできた映画なのだと改めて思いました。
映画は、ナチスドイツのポーランド侵攻、それによるユダヤ人隔離政策、ムチャクチャな殺人・虐殺、家族との別れ、たまたま救われてワルシャワ市内での潜伏生活、ものすごい孤独と忍耐と希望のない日々、ドイツ軍将校との交流、そして、ソ連軍による一時的な解放と進んでいき、しばしの安息という内容でした。
丁寧にたくさんの人々の死が描かれていきます。ものすごい無力感を感じつつ、ゲットーでの反乱は悲愴感を感じ、潜伏期間中は圧迫感を感じ、レジスタンスの爆発では少しだけ希望を抱きと、主人公と同じような心境になりながら見ていました。そして、解放されても、もう数年前の自分たちの環境は失われてしまっていて、それでも同じように、ふたたびピアノに向かおうというところで終わるものでした。
ですから、私は、感想は何もなくて、ただナチスの虐殺を見聞きし、許されないことだと思い、二度とこんなことはしてはいけない、というありきたりの結論にたどりつきます。
ところが、70年後の今も、少し形は違うけど、理不尽な殺戮行為は続いているようです。いや、自由の使者の連合軍も、それからあとの朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争・イラク戦争・アフガニスタン攻撃でどれくらい平和的な攻撃ができたのか、ものすごく不安です。
まさかナチスドイツのようなことはしなかったでしょうが、すべて公明正大な行為だったのかどうか。
やはり、まとまりはつきませんでした。「戦場のピアニスト」も、主人公が助かってよかったけれど、そこに至るまでにどれくらいの人々が犠牲になったのか、それを思うと、もう映画ではなくて、悲しくて涙も出ません。とにかく恐ろしい事実をつきつけられて、ただ黙って思いをいたすだけです。
こういうことがあったと知ることができたのを喜ぶべきなんでしょうね。そして、映画にならなかったたくさんの人々の物語があったと思うべきなのでしょう。貨物列車に載せられたシュピルマンさんの家族の物語はもう描かれていません。描くのはあまりに辛い事実があるからでしょうし、圧倒的に希望のない内容だから、何か1つ希望を描かなくてはならなかった。シュピルマンの生還も観客としては希望です。彼がドイツ軍のコートを着て町中に出て行ったときはもう目の前がまっくらでした。そうなるとわかっていた。でも、とにかく彼は助かります。少しだけホッとした。
ドイツ軍の将校さんとの交流も1つの希望でしょう。町中でユダヤ人を発見しても、彼は射殺しなかった。そして、パンを与え、何度かシュピルマンを訪ね、状況を話してやり、希望と食料を与えた。これも事実だったのだと我々は知らなければならなかった。ナチスドイツに所属する人々も殺人兵器ではなくて、やはり人間だった。そして、人間には音楽を愛する心があった。そういう映画だったんですね。