もう十年くらい前の、何だかうつろな東北本線でした。小牛田行きだったみたい。だから、私はこれに乗ったのではありません。大船渡線に乗ったはずですけど、その写真は撮らなかったようです。
何だか地に足がついてなくて、フワフワと奥さんのふるさとを歩いていました。どこを歩いたかもはっきり憶えていません。クルマではなくて、新幹線で行ったはずです。
別に東北本線がうつろ、というわけではないけれど、それを見る時の私が「うつろ」になってしまう、ということですね。何だか心っていい加減です。でもまあ、そういう色メガネをまだ私は持っているということですね。不思議だなあ。
そういう、何か落ち着かなく見えるのではなくて、もっとドッシリと落ち着いて何かを見ていたり、遠くをちゃんと見つめることができていることって、私にあったでしょうか。画像データから探すことにしました。
夕焼けを撮る時は、なんとなくリラックスして、一日の終わりをかみしめてる時が多いから、落ち着いている、というか、くたびれている、のかな。
外宮のお庭の中を歩かせてもらった時は、もう何も迷いはないですから、ただお祈りするだけだし、そんなに焦ってないし、お金も寝ないけど、それはいつものことだし、穏やかな気持ちになれましたね。
これは、もう何度も撮ってるし、何度も同じ風景ばかりにはなるけど、大洞山そのものが穏やかな山なので、知らない人たちはたくさんいるとおもわれますが、ぜひたくさんの人に知られてほしいし、もう少し登山口までの道が知る人ぞ知る細道ではなくて、誰でも簡単に行けるような道であってくれたなら、もっとポビュラーになるかな。
それは俗化するということはなりますが、大洞山はまわりに何もない山だから、いろいろと展望が開けるはずです。しかも、二つのピークがあるから、お得な感じです。これは確かな風景だ。
ジューンベリーの花は、可憐だし、やがては実になるし、ステキではあるけれど、うちでは実はタネが多くて食べていません。たいていはヒヨドリが食べてしまう。
残念ながら、これも確かな風景に入れたいけど、うちのジューンベリーは伸びてる枝がどんどん枯れていきます。真夏だというのに、葉っぱはありません。まるで枯れ木のようで、春先に一瞬、「あっ、元気になった」と喜んだりもするけど、だんどんと元気がなくなっていく。これは、うちに関していうと、不確かなもの、移ろいゆくものです。
並んで伸ばしているビワの木も、最近は葉っぱを落としています。お隣りの家に光をさえぎられているから、元気が出ないのかもしれないな。
いつも秋になると見に行く、飯南高校のハナノキ、これは確かなものですね。落葉になって枝だけにはなってしまうけど、春になったらまた葉や花をつけるし、大きな木というのは確かなもの、私たちがすがりたいものだった。
空の雲は? これは、消えていくものだから、その場だけの一瞬のものでした。でも、一瞬、私たちの心には残る時もあるかもしれない。
生き物は年を取っていくし、飼い主よりも早くいなくなってしまうことがありますね。でも、飼い主にとってはその犬や猫と一緒に過ごした時間は、それはすのすごくリアルなものだから、永遠になりますね。うちの奥さんなんて、十代の頃に実家で飼っていたネコとのお話を今でも昨日あったことのように聞かせてくれる。
ネコたちと一緒に暮らしたことのない私は、ただ羨ましいだけだった。いつもそういうこともあるものか、と他人事のように聞くしかなかった。
私にとって確かなもの・風景というのは、自分の記憶・思い出につながっている気がします。中三の夏に初めて見た湖西地方の白髭神社は、ここはどんなことがあっても、ものすごく暑くても、安定した確かさを伝えてくれる。
そういう風景たちが、突然にうつろになる時もあるでしょうけど、なるべく気持ちをコントロールして、穏やかで落ち着いたものして見ていけたらいいなあ。