甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

Lyudmila Savelyevaさん その1

2016年02月27日 06時32分55秒 | だいたい映画、ときどきテレビ
 私の小さい頃、それっていつになるんでしょう。40数年前? ということは、万博のころになるのかな。

 きっと、そうですね。1970年、大阪の子は、万博に行くと、外人さんがいるから、誰でもかまわずサインをねだったそうです。別に有名人でなくてもいいから、とにかく外国人を見つけたらサインしてもらうことにした。

 それくらい外国の方が珍しい時代でしたし、何だかウキウキするような、特別なお祭りが、吹田の千里丘陵で行われているのだ。そこでは国際的なお祭りだから、何か思いついたら、それを実行していい、何だって思った者が勝ちの不思議な空間があるのだよ、という気分があったのかもしれません。



 私は、そんな知恵もないし、どちらかというと内弁慶(かなり内向きの人)なので、外国の方に話しかけることなんかしませんでした。だからサインをもらう風習は知らなかった。

 それより、どこのパビリオンでスタンプ押そうと、そればかり考えていました。ああ、それは今もかなり一緒で、どこか知らない駅に行くと、いや、なじみの駅でも、「今日はヒマだからスタンプ押そう」とか、「せっかくここにいるんだから、スタンプ押そう」と、理由はなんとでもなるので、とにかく押すことが大事なので、押してます。何ということでしょう! オッサンなのに!

 けれども、家の中では、外国のことに興味があって、洋画劇場なるものを熱心に見始めたのがこのころでした。

 たくさんのスターがいました。マンダムのコマーシャルのチャールズ・ブロンソン、映画の世界ではあまり目立った仕事はされてなくて、堅実な仕事をされてたみたいですけど、当時の私たちから見れば、メタクソ(これをメチャクチャという意味で使ってました)有名な、大スターであり、あこがれの的でした。だから、たまにブロンソンさんが画面の中で演技していると、少しだけ違和感がありました。「もっとコマーシャルみたいに頑張れ!」とかなんとか思っていたかもしれない。



 実は頑張っておられたのだと思いますが、小さい頃の私たちには、そのお仕事の全貌は見えなかった。あこがれのスターなのに、存在感だけが大きかった。

 一方、作品も、演技も、躍動感も抜群なのが、スティーブ・マックイーンさんでした。マックイーンさんは、たぶん、70年代末に亡くなってしまうので、ご本人には晩年だったのかもしれないけれど、私たちにはバリバリの現役で、バリバリのアクションスターでした。いつもカッコよかった!

 何度も見た「大脱走」とか、……他に、「タワーリングインフェルノ」はもう少しあとだし、「パピヨン」、これも好きな映画だったけれど、これはエスケイプするマックイーンさんを、違う形で演技させたらという、役者の持つイメージをフランス式(?)に置き換えた映画でしたけど、これもマックイーンさんの魅力で作り上げた映画でした。



 残念ながら、しばらくこうした世界から遠ざかっています。たまたま、テレビの地上波で「大脱走」を見つけて、見てみると、長いし、テンポがゆるいし、画面はザラついているし、家族はおもしろくなさそうだし、私の大事な世界が、何だか古ぼけてしまっていて、少し残念な感じでした。

 もっとゆったりした気分で、今のテレビ形式に合わせた画像処理をして、字幕で見なきゃダメだと思いました。私にもゆとりがなくて、片手間で見るには不向きであると思ったりしました。

 なかなかリュドミラさんにたどりつけません。それくらい遠い昔の話なんですね。でも、うっかりしていると、そうした人たちも、私の記憶も吹っ飛んでしまいますし、つまらないことでも、書かなきゃいかんのです。

 要するに、リュドミラさんというソビエトの女優さんに、小さい頃あこがれていたんですね。理想の女性だったわけです。なのに、私は、ソフイア・ローレンさんも大好きで、たぶん曽我町子さんの吹き替えでソフイア・ローレンさんを見ていたりしましたが、といっても、何を見たのかこれもハッキリしなくて、ヒッチャカメッチャカになってきました。



 とにかく、70年代、いろんな俳優さんたちがたくさんいて、私たちは素直にあこがれていた。父や母は、そういう世界には無頓着でした。私たち子どもの方が、かなり積極的でした。

 父や母たちの世代は、昭和の前半の人たちは、それこそ日本映画全盛の時代を経験してきているので、日本映画こそがスターの世界であり、外国の俳優さんのこと、そんなのは知らないし、興味もない人たちでした。淀川長治さんという映画評論家さんがいましたが、この方は特殊な存在で、一般の大人たちは、日本の中を見ていました。

 70年代のこどもたちは、世界を見ていたというのか、あこがれがあったのだと思います。

 リュドミラさんのこと、何も書いてないので、また別の機会に書くことにします。失礼しました。



★ どこかで書いたかもしれないけど、うちの父と母が連れ立って洋画を見にナンバまで出かけたことがありました。70年代のことです。よくはわからなかったけれど、当時スゴイ話題で、母が誘ったのかもしれません。

 なんと映画は、「エマニエル夫人」で、帰って来て、私は「どうだった?」と素直に訊いたら、母はうんともすんとも言わなかったような感じでした。

 今となっては、「エマニエル夫人」がどんな映画だったのか、どこかで、たぶん私はテレビで、チラッと見たような記憶がありますが、当時の人たちは、それがどんな映画なのかよくわからず、とりあえず大人が見に行く映画で、ものすごく流行っている映画である、というだけでした。何の先入観もありませんでした。

 父と母は、何だこの映画はと思ったことでしょう。子どもらに報告しないでいようと打ち合わせしたのかどうか。まさか父は日記に「エマニエル夫人」の感想を書いてないかなぁ。書いてたら見てみたいです。

 でも、それを探すために父の日記を読むのはいけません。ちゃんとテーマをもって読もうと思いつつ、もう2年半が過ぎようとしています。いつになったらちゃんと読むのかな。私は、つまらない自分の思い出ばかり書いています。よくないです。


★ リュドミュラさんのこと、書いたのは2月の末だったんですね。知らなかった。あっという間に時間はながれていくもので、3ヶ月ちかくが過ぎています。

 嘆いても仕方がないけれど、シルビアさんのこと、少し気になったので調べてみました。

 オランダ生まれで、優秀なお子さんではあったけれど、いろんな辛いことも経験してきたようです。両親は離婚し、チャンスを求めてモデルさんを始めて、チャンスを見つけて芸能界へ入っていった。

 小さい頃に、どん底を見た彼女は、何だって受け入れてしまい、自分がきれいに見えるんだったら、どんな役でも挑戦しようとし、「エマニエル夫人」にも出演した。大ヒットして世界的な女優さんになり、いつもみんなから取り囲まれてしまう。続編もヒットして、アラン・ドロンとも共演したり、女優として大躍進したかに見えた。

 本人の結婚生活は長続きせず、次から次と新しい結婚もしていく。女優さんというか、女の人というべきなのか、新しいステップのために、そばにいる男を換えていく女性というのはいるような気がします
(私の頭の中には、「真田丸」の茶々役の竹内結子さんが浮かんでいます)。


 シルビアさんは、アメリカ進出、挫折してオランダに帰国、たくさんの手術を経験。たまたまテレビの取材がやってくると、「私にとってエマニエルは特別よ」ということばが取り出され、彼女は過去の一瞬を引きずっているという形でまとめられてしまってた番組、見たような記憶がありますが、そりゃ、そういうしかなかった。



 2005年のアムステルダムでのシルビアさんは、闘病生活もあったろうに、わりと元気そうで、少しだけ現役みたいな雰囲気もあります。写真としてもまあまあです。でも、もう映画界はこりごりだったのかもしれない。ナレーターとか、絵本のおばさんとか、いろんな道があったと思うんだけど、もうこの世におられない。何だか不思議です。今でも現役バリバリで、たくさんの男性を悩ませている印象だけど、そんなことももうしておられない。

 私は、シルビアさんの映画を色メガネで見ていました。いつか、ジイサンとして「エマニエル夫人」でも、奥さんと2人でキャッキャッと言いながら見てみたいです。そしたらもっと、シルビアさんがよみがえるかなあ。そんなに好きではなかったと思うのだけれど……、何だか気になります。  



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