* わが半生
私は随分苦労して来た。
それがどうした苦労であったか、
語ろうなぞとはつゆさえ思わぬ。
またその苦労が果たして価値の
あったものかなかったものか、
そんなことなぞ考えてもみぬ。
それがどうした苦労であったか、
語ろうなぞとはつゆさえ思わぬ。
またその苦労が果たして価値の
あったものかなかったものか、
そんなことなぞ考えてもみぬ。
とにかく私は苦労して来た。
苦労して来たことであった!
苦労して来たことであった!
そんなふうに言える人がいます。なかなか人前で言えることではありません。詩の中だから言えることなのかもしれない。
でも、それにはどんな事実が隠されているのか、ボンクラな読者の私には、とても感じ取れません。「そうなのかぁ、へーっ」と気のない返事一つくらいしかできない。
けれど、何だか聞いて欲しそうですし、こっそり教えてもらえそうな気もします。この人の苦労話を聞かせてもらえたら、もっとしんみりとした言葉が言えそうな気がするのですが、残念ながら、こちらで勝手に想像するしかありません。
女の人での苦労なのか、生活での苦労なのか、家族のことか、病気のことなのか、とにかくいろいろな苦労があるでしょう。私は、ボンクラなので、たいした苦労はしていないと思いますが、だから、相変わらずビンボーですが、まあ、私だって、それなりに苦労はしたかもしれない。でも、甘っちょろい苦労しかしていないから、ボンクラなんでしょう。
とにかく、中也さんは、すごい苦労をされたんですね。それを私には教えてくれない。でも、次の文句から、苦労の一端がわかる気がするのですよ。
そして、今、ここ、机の前の、
自分を見出すばっかりだ。
じっと手を出して眺めるほどの
ことしか私は出来ないのだ。
自分を見出すばっかりだ。
じっと手を出して眺めるほどの
ことしか私は出来ないのだ。
今、机の前に座っておられるらしい。そして、何か詩を書こうとしているようです。何かを書くにしても、絵空事なんか書けやしない。そんなの嘘っぱちだし、自分がそんなのを欲していない。
ただ自分を見つめて、何かを書くにしても、自分というものを原点にしか書けない今を見つけた。今はただ空っぽの手もとだけがある。他には何もない。家族はいないの?
いるかもしれないけど、家族と詩を書くことがつながらない時だってあるのです。何となく家族をテーマに書けそうな時と、空っぽの手もと、何にもない自分をただ見つめるだけの時だってあります。
他人から見ると、「何だよ、気取ってるな」とか、「バカ言ってんじゃないよ」とか、イマイチよくわからない時もあるのです。本人にはとても大切な空虚さなのに、他人にはそれがよくわからない。変にペシミスティックに見えるだけ。
外では今宵(こよい)、木の葉がそよぐ。
はるかな気持ちの、春の宵だ。
そして私は、静かに死ぬる、
坐ったまんまで、死んでゆくのだ。
はるかな気持ちの、春の宵だ。
そして私は、静かに死ぬる、
坐ったまんまで、死んでゆくのだ。
結局、とことん落ち込んだ形で終わりです。でも、割り切れた形なのかもしれません。確かにボンヤリしていても、いつかは命は尽きてしまう。それは分かっている。
座ったままで、死んでしまうのかもしれない。それはもう、何もしないでボンヤリしていたら、死んでしまうでしょう。
でも、私はそれを受け入れたのか?
そうではないですね。そうかもしれないけど、明日には、何かしようと模索するでしょう。今宵は苦労に打ちひしがれているけれど、明日の朝には、いや、今だって、風の音を聞きながら、これからに向かって、やっていこうとしているんではないかな。
わりと穏やかな気持ちで、新たな苦労にも立ち向かおうとしている私を見つけたんですけど、だから、昔の苦労話はカットで、今からの時間にパワーをためている感じです。