甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

♪お月さん、コンバンハ……

2015年12月26日 06時23分46秒 | 空を見上げて
 そういえば、昔は暴走族と呼ばれる人たちがいました。騒音を鳴らし、道路を集団で走り、人に暴力をふるうなどの悪さをするわけではないけれど、とにかく他を圧する集団として嫌がられていました。

 警察が、暴走族を取り締まると聞けば、「そうだ、どんどんやれー!」と人々は心の中で思っていました。それは小市民的な感覚です。もちろん私もその最先端でした。私にとって暴走族は、ウルサイ、小汚い、言葉遣いが悪い、人の言うことを聞かない、町を汚すとんでもない人々というイメージで、ぜひ取り締まって欲しいヤツラでした。

 今、あの人たちは、どこへ行ったのでしょう。一時的な70年代の流行だったのか、それから40年ほどが経過して、暴走族らしき人々は消えてしまったような気がします。小市民としては、何だかうれしいし、それが当たり前になりつつあります。

 でも、そういう、世の中に不満を持ち、やりたいと思うことができず、体を持てあまし、みんなと一緒に何かがしたい、人恋しい、疾走感の好きな若者たちはいないのでしようか?



 昨日、クリスマスでした。満月も浮かんでいました。私は、ジイサンになってきたので、まん丸に見えなくて、右が欠けているのかなと見えたけれど、満月でした。村上春樹さんの「1Q84」じゃないけど、最近はお月さんは二重に重なって見えます。困ったことです。2つの月があるなんて……。

 小説の世界では、ちゃんとキレイに2つあるのに、私の世界の月は、1つがダブって見えています。近くにあるモノは、1つとして判別できるのだけれど、お月さんくらい遠くなると、2つになってしまう。まあ、それくらい遠くにあるモノは、たどりついたら1つになるんだから、2つであろうが、3つであろうが、まあ、かまいません。とにかく近づけたら、それでいいわけですね。

 散歩に出かけてもいいけど、ナツだったら、絶対に出かけたと思いますが、あたたかな冬だけど、散歩には行きませんでした。窓からチラッと見るだけでした。お月さんも、
 「なあんだ、来ないんだね。まあ、キミのところは、キミらしくやっていればいいよ。ボクは他にいくところがたくさんあるからね」という感じかな……。

 それで22時ころ、いつものようにブログをしていたら、通りで暴走するバイクとそれを追うパトカーの音がしました。昨夜はクリスマスだったので、バイクの人たちは集団で走っていたようです。単独なら見逃すのに、集団であれば取り締まるなんて、何だか人ごとではありません。

 個々の単独行動は自由なのに、集団は管理されるモノになっている。何だか今の私たちと同じではないですか。個人が何をほざこうがそんなのは無視してしまうけれど、集団で発言し、行動するのはあまり認められていない。きっと私たちの社会そのものなんだと思います。

 暴走する若者たちは、それを見抜いているのでしょう。パトカーとのカーチェイスを適当に楽しんだら、すっと町の中へ隠れてしまう。そうすると警察は追いかけてこないし、徒党を組むことがダメで、個人で楽しむ分には問題ないということになるのだと見透かしている。

 警察も、それらしく追いかけているけれど、何を取り締まろうというのではなくて、ただ静かにしなさいと注意するだけだと。……予定調和の劇の一幕を聞かされたわけですね。なあんだ。



 若者は、することは昔と違うけれど、何かをしたいのだと思われます。けれども、昔以上に今の世の中は、若者に自活しろ、社会は厳しいぞ、そんなことでは世の中をやっていけないぞ、という見えないプレッシャーが強い気がします。

 昔は、いろんな人たちが、とんがっていたので、そうか、とんがっててもいいんだという感じがありました。今はとんがることは悪であり、社会不適応であり、拒否され、除外対象のトップにきてしまいます。

 だから、何かをしたい若者は、みんな我慢して、社会に適応して、社会が要請する、ものを言わない、従順な若者を演じている。



 もっと暴走したらいいのに、みんなで集まればいいのに、みんな単独にさせられて、持ち場で懸命に努力している。それぞれがバラバラにさせられている。

 何が言いたいのかというと、もっと若者たちは、みんなで集まって、みんなでおしゃべりして、みんなで何かを決めていってもらいたい。若者たちは、オッチャン・オバチャンも何だか忙しそうだけど、みんなで何かをすることって、大事な気がします。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。