甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

オホーツク挽歌 その1

2015年12月27日 06時29分32秒 | 賢治さんを探して
 今日、昼からは日ざしも出るということですが、風の強い、カラスの鳴いている、少しだけ寒い朝です。

 どこかへ旅に出ようと思っていましたが、すこし怖じ気づいてしまいました。年賀状も書いてないですし、奥さんは自分の分は出したので、「私の分は、来年からもう版画はすってあげない」と厳しいおことばです。

 そうですね。自分で何もしない私を見てたら、イヤになってしまうんでしょう。今日こそ、年賀状を書くことにします。だから、どこかへ旅に出るというのはなしです。そりゃ、それでいいかな。

 私は、賢治さんと樺太に向かいましょう。船はもう稚内(わっかない)を出ました。樺太に到着したら、目的地はあるんでしょうか。仕事はどうなっているんでしょう。それでは、賢治さんに訊いてみましょう。



オホーツク挽歌

海面は朝の炭酸のためにすつかり銹びた
緑青(ろくせう)のとこもあれば藍銅鉱(アズライト)のとこもある
むかふの波のちゞれたあたりはずゐぶんひどい瑠璃液(るりえき)だ
チモシイの穂がこんなにみぢかくなつて
かはるがはるかぜにふかれてゐる
  (それは青いいろのピアノの鍵で
   かはるがはる風に押されてゐる)
あるいはみぢかい変種だらう
しづくのなかに朝顔が咲いてゐる
モーニンググローリのそのグローリ
  いまさつきの曠原風(こうげんふう)の荷馬車がくる
  年老つた白い重挽馬(じゅうばんば)は首を垂れ
  またこの男のひとのよさは
  わたくしがさつきあのがらんとした町かどで
  浜のいちばん賑やかなとこはどこですかときいた時
  そつちだらう 向ふには行つたことがないからと
  さう云つたことでもよくわかる
  いまわたくしを親切なよこ目でみて
   (その小さなレンズには
    たしか樺太の白い雲もうつつてゐる)




 たどりついた港町を歩いてみたんですね。樺太だけど、夏だから、朝顔が咲いている。それは当たり前ですね。珍しいことではない。ただ、ああ、こんなところに朝顔が咲いているという感じ。

 NHKのBSで、岩合光昭さんが世界のネコを追いかける番組がありますが、あれと同じ感覚です。世界の街角は、当然日本と空気感や清潔感・雰囲気・人のしぐさも、それぞれに違う。そこを訪れた岩合さんは、人にカメラを向けてもいいのだけれど、それはほとんど撮らないで、ネコを追いかけています。

 私たちは、それを見て、空間はちがうけれど、世界のいろんなネコたちのくらしを見ることができて、そんなに違いがあるわけではないけれど、なんだか人々の暮らしも垣間見られて、ネコを通してヒトを見ることができたりするので、つい見てしまうのでした。……ということは、あの番組は常にどこかへ飛び回ってなきゃいかんということになりますが、たぶん、日本各地を旅するだけでも、番組は成立するし、町内ごとにネコの物語はあるのかもしれません。

 というわけで、アサガオでしたね。賢治さんは、こんなところに朝顔が咲いている、という発見をします。何日もかけて、船には2回も乗って、大きな島の南端にたどりついた。夏とはいえ、涼しく、港は、海の色まで違う気がしたのです。それがアサガオを見つけて、ホッと安心したのかもしれません。



朝顔よりはむしろ牡丹(ピオネア)のやうにみえる
おほきなはまばらの花だ
まつ赤な朝のはまなすの花です
 ああこれらのするどい花のにほひは
 もうどうしても 妖精のしわざだ
 無数の藍いろの蝶をもたらし
 またちいさな黄金の槍の穂
 軟玉の花瓶や青い簾(すだれ)
それにあんまり雲がひかるので
たのしく激しいめまぐるしさ
   馬のひづめの痕(あと)が二つづつ
   ぬれて寂まつた褐砂の上についてゐる
   もちろん馬だけ行つたのではない
   広い荷馬車のわだちは
   こんなに淡いひとつづり
波の来たあとの白い細い線に
小さな蚊が三疋さまよひ
またほのぼのと吹きとばされ
貝殻のいぢらしくも白いかけら
萱草の青い花軸が半分砂に埋もれ
波はよせるし砂を巻くし
白い片岩類の小砂利に倒れ
波できれいにみがかれた
ひときれの貝殻を口に含み
わたくしはしばらくねむらうとおもふ



なぜならさつきあの熟した黒い実のついた
まつ青なこけももの上等の敷物(カーペツト)と
おほきな赤いはまばらの花と
不思議な釣鐘草(ブリーベル)とのなかで
サガレンの朝の妖精にやつた
透明なわたくしのエネルギーを
いまこれらの濤(なみ)のおとや
しめつたにほひのいい風や
雲のひかりから恢復(かいふく)しなければならないから
それにだいいちいまわたくしの心象は
つかれのためにすつかり青ざめて
眩(まば)ゆい緑金にさへなつてゐるのだ
日射しや幾重の暗いそらからは
あやしい鑵鼓の蕩音さへする




 「透明な私のエネルギーを、今これらの濤(なみ)の音や湿った匂いのいい風や雲の光から回復しなければならないから」ということなので、賢治さんは、岩手とは違う、樺太の夏景色によってエネルギーを回復させているらしいのです。

 なにしろ、挽歌なんですから、妹さんが亡くなったことを考えたいと思って旅をしています。

 それはどうにもならないことだし、妹さんはきっと、お兄さんに感謝して、お兄さんのことを思いながら、違う世界へ行ってしまった。それは頭の中では理解できるのだけれど、心の部分で理解できないところがある。

 だから、わざわざ樺太まで来ています。答えは見つからないかもしれないけど、とにかく歩き倒さねばならないのです。そして、妹さんと対話できるチャンスを見つけなきゃいけない。妹さんは、遠くには行ってしまったけれど、心の中にはいるので、その心の中の妹さんが来てくれるような環境で、話をしてみたい。

 その場所として、樺太を、岩手からまっすぐ北をめざしたのです。ひよっとして男鹿半島とか、恐山とか、そういうところへ行ってもよかったのかもしれないけど、修験道でもないし、イタコでもないし、自分の中の宗教心とも向き合いたいので、それが北極星のそばの土地だったわけですね。



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